忙中に閑を摑む

先々月9日、『ビル・ゲイツの成功を支えてきた「4つの習慣」とは?』と題された記事がフォーブスジャパンにありました。彼は「多忙な日々の中でも大切にしてきた習慣」の一つとして、80年代から年に2回程1週間の「考える週」を確保し続けてきているようです。

ゲイツ氏は「その期間は仕事をせず、家族との連絡も絶って、じっくり自分の夢や目標を見直し、気持ちをリセットする時間に充てている」とのことですが、私は何々を絶つとか期間云々でなしに、少なくとも週に一度ぐらい静かな環境に身を置くということは大変有意義だと思っています。

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日頃「忙しい、忙しい」と言っているほど、私から見て忙しくない人が結構いるように思います。そうした類の人達は、真に向き合うべき事柄に取り組まず、詰まらぬ事柄をやり過ぎていることの方が多いような気もします。

「忙」という字は「心」を表す「忄」偏に「亡」と書きますが、そのような人々はある意味心を亡(な)くす方に向かっているのかもしれません。そしていよいよそれが高じて、睡眠不足になり鬱病になることもあるわけです。だから東洋哲学では、「静」や「閑」ということを非常に大事にしています。

例えば、明治の知の巨人・安岡正篤先生も座右の銘にされていた「六中観(りくちゅうかん):忙中閑有り。苦中楽有り。死中活有り。壺中天有り。意中人有り。腹中書有り」の第一に、「忙中閑有り」とあります。

」とは門構えに「木」と書くように、ある家の門を開けて入った先に木立があり、静かで落ち着いた雰囲気がある様を指します。つまり「閑」には「静」という意味があるのです。そして、そこに居れば都会の喧騒や様々な煩わしさを防ぐことが出来ます。だから「閑」には「防ぐ」という意味もあります。勿論、「暇(ひま)」という意味もあります。

安岡先生は「忙中に摑(つか)んだものこそ本物の閑である」と言われていますが、忙しい中でも自分で「閑」を見出して、静寂の中で心を休め、瞑想に耽りながら、様々な事象が起こった時に対応し得る胆力を養って行くことは必要だと思います。

あるいは、『三国志』の英雄・諸葛亮孔明は五丈原で陣没する時、息子の瞻(せん)に宛てた遺言書の中で、「澹泊明志、寧静致遠(たんぱくめいし、ねいせいちえん)」という有名な対句を認(したた)めました。

之は、「私利私欲に溺れることなく淡泊でなければ志を明らかにできない。落ち着いてゆったりした静かな気持ちでいなければ遠大な境地に到達できない」といった意味です。苛烈極まる戦争が続く日々に、そうした心の平静や安寧を常に保ってきた諸葛亮孔明らしい実に素晴らしい味わい深い言葉だと思います。

このように「静」ということは非常に大事です。ずっと齷齪(あくせく)しているようでは、遠大な境地に入ることは出来ません。時として自分をじっくり振り返り、あるいは何も考えないで唯々心を休める時間を持つことが大切なのです。

単に「忙しい、忙しい」で終わってしまうのでなく、もう少し違った次元に飛躍するため、「閑」を意識的に作り出して行き、ものを大きく考えられるようにするのです。ふっと落ち着いた時を得て心を癒し、短時間で遠大な境地に達し、それを一つの肥やしとして“Think Big.”で次なるビッグピクチャーを描いて行くことも出来るでしょう。

最後に、安岡先生の御著書『人生の大則』より次の指摘を紹介しておきます――我々はいろいろ本を読んだり、趣味を持ったりするけれども、案外人間をつくるという意味での学問修養は、なかなかやれないもので、とにかく義務的な仕事にのみ追われて、気はついていても人格の向上に役立つような修養には努力しない。少し忙しくなってくると、そういうことを心がけることはできにくいもので、地位身分のできる頃に、悲しいかな自分自身は貧弱になる。

「忙しい、忙しい」と言う人に限って自己修養をしていません。すると、自分自身の地位身分が出来た時に恥を掻(か)くことになってしまうわけです。将来嘆きたくないのであれば、忙中にも「」を見つけて自己修養せねばなりません。

人間の在るべき姿を求め、その目標に向かって修養・努力し続ける必要があります。『易経』に「天行健なり。君子は以って自彊(じきょう)して息(や)まず」とあるように、我々も日々やむ事なき努力を続けねばならないのです。


編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2020年4月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。