国家事業とは何か?

2010年09月13日 11:27

「光の道」に関連して、これまで、アゴラを始めとする色々なところで多くのことを書いてきましたが、こういう議論に反発する方の大半が、「何で国がそんなことをするのか? 要りもしない道路をやたらに作って、がら空きのまま放置するのと同じじゃあないか」という考えをお持ちのように見受けられました。「そう思う気持も分かるなあ」と感じる一方で、「国が行う事業に対する不信感」の深さに、暗然たる気持にもなりました。


私とて、「小さな政府」を支持することにかけては人後に落ちぬつもりですし、国や地方公共団体がやる仕事の無駄の多さに苛立つことも頻繁にあります。例えば、麻生内閣の時の「漫画の殿堂」等はその最たるもので、「あまりにひどい勘違いだ」と憤然としたものです。

(「漫画の殿堂」については、恐らくは、「ソフト分野での輸出産業となりうるMangaを『振興』したい」とか、「漫画を理解する麻生さんの庶民性を売り込んで人気を得たい」とかの思惑があったのかと思いますが、これほど頓珍漢なアイデアはありません。毎年数十万人が集まるコミケの盛況ぶりをみれば分かるように、漫画愛好家は自分達の手で自分達の文化を作り上げており、この動きはアジア諸国やフランスなどにも広がっていっています。国に「殿堂」等を建ててもらう必要は全くないのです。

因みに、印刷メディアの限界から、能力があっても世の中に認められていない数多くの潜在的なプロが、これから活躍の場を得る為には、「電子ブックの普及」こそが最大のブレークスルーになると思います。電子書籍、電子雑誌などの普及は、Amazonがリードした米国が明らかに一歩先を行っていますが、流通量では日本が突出しており、それは、一にも二にも漫画のおかげです。)

さて、話が横道にそれましたが、何故日本では、多くの人が「膨大な無駄遣い」と感じているような「道路」や「ダム」、それに、国や様々な公共団体が運営する「箱物」がこんなにも多いのでしょうか? その理由は簡単で、もう数十年も前に、「政治家が何らかの形で決定権を持てる建設工事をやれば、受注した建設会社から何らかの形で政治資金の還流が得られる」という仕組みが作られたからです。

かつての自民党には、吉田茂に始まり、池田勇人や岸信介、佐藤栄作、等々につながる「官僚派」と、鳩山一郎に始まり、三木武吉や大野伴睦、河野一郎、等々につながる「党人派」の対立がありました。地方に伝統的な地盤を持ちながらも、全体として劣勢であった「党人派」が、起死回生策として考え出したのがこの錬金術でした。大・中・小の建設会社は、「天の声」に支えられて「談合」を仕切ることによって、余裕のある金額での受注を手中にするのですが、その見返りに「天の声」を出してくれた政治家に還流する資金をひねり出し、その還流方法に知恵を絞らなければなりませんでした。

日本では、どこへ行っても、地方都市を支えているのは地場の土木建設会社です。彼等が成り立たなくなると、多くの地方都市は更に疲弊してしまうのです。「コンクリートから人へ」のキャッチフレーズは美しいのですが、その一方で「地方活性化」は待ったなしで、困ったことに、この二つはなかなか両立しないのです。

長期的には、「税金の無駄遣い」で「政治と金の問題の温床」である「不要不急の土木建設工事」を大幅に減らし、そこで余ってくる労働力を、より生産性の高い新産業で吸収することが必要なのですが、「じゃあ、具他的に何をどうすれば良いのか」と言われると、頭を抱えるばかりです。

さて、ここで少し観点を変えて考えて見ましょう。

日本の政治のあり方については、多くの人達が、現在の混迷が一日も早く解消されて政界の再編が行われ、「大きな政府」を標榜する「若干社会主義的な政党」と、「小さな政府」を標榜する「市場原理重視の政党」との「二大政党」が、政策論を闘わせて対峙する図式が実現することを望んでいるように思えます。私もその一人です。

現在、色々な経済産業政策の問題を巡って様々な意見の対立が見られますが、どこで意見が異なっているかを分析してみると、驚くべきことに、経済理論や科学技術についての理解の相違が論争のベースになっていることが結構多いのです。しかし、これは全く馬鹿げたことです。間違った理解を正し、理解のベースを合わせた上で議論を再構築すれば良いだけのことなのですから、先ずはこれをやるべきです。

(経済学を含む「科学・技術」は、「事実」と「論理」から成り立っているものであり、余程先進的で高度な理論や技術でない限りは、コンセンサスは比較的容易に得られる筈です。)

しかし、その一方で、「価値観」の相違は最後まで残ります。一般に市場原理主義者は「効率」と「成長・発展」を最重視し、これがもたらす「行き過ぎによる破綻」や「格差の拡大」などの種々の弊害はあまり気にしません。「豊かになれる者から豊かになればよい」という理念で推進された中国の「改革開放」路線などは、その一大成功例を世界に示しました。

(元来、中国人は世界中で最も金銭感覚が鋭敏な人達で、市場原理主義の源流は、欧米よりはるか昔の「宋」の時代にさかのぼります。この中国人が世界最大の共産主義国家を作り上げたのは、何とも興味深い世界史の一断面ですが、その中国の現状は、一党独裁の軍事政権下で急速な経済成長を果した、韓国、台湾や、シンガポールのかつての姿と、何等変わることはありません。つまり、中国は「共産主義」よりも「一党独裁」のメリットを経済発展の為に使っているのです。)

これに対し、「効率」や「成長」よりも「平等感」や「社会保障」を重視する人達は、経済運営についても、市場原理主義に反対し、一部で計画経済的な手法の導入を求める傾向があります。これは公共事業の重視という側面も持ちます。

こういう人達は、「『経済的繁栄』は一見華やかに見えるが、本当にそんなに良いことなのか?」「人間には、『経済的繁栄』よりもっと大切なものがあるのではないか?」と問いかけているかのようでもあります。「そんなに急いでどこに行くの?」というわけです。

これは科学技術の進歩についても言えることです。「なんでもかんでもデジタル化し、効率重視で突っ走っていると、人間性が次第に失われ、毎日の生活が潤いのないものになる」と考え、真剣にこれを憂いている人達は、結構多いと思います。かつて世界的にTVの普及が始まったときにも、これを嫌って、「私はTVなんか視ない」と誇り高く宣言した人達が、欧州には結構いました。

(個人的なことを一つ告白するなら、「デジタル情報革命」の最先端を走っている筈の私自身にも、若干その傾向はあります。仕事柄、本来なら、携帯端末の小さな画面上で次々に違ったアプリケーションが動くのを、訪問者などにデモしなければならないのですが、小さな画面がチャカチャカ動くのを見るのは、老齢の私にとっては相当な苦痛を伴うことなので、これだけは勘弁してもらっています。)

こういう「価値観」の相違は、勿論、「どちらが正しく、どちらが間違っている」等と言えるものではないし、異なった「価値観」の溝は、そう簡単に埋められるものでもありません。従って、私は、異なった「価値観」のどちらを採用するかは、最後は多数決で決めるしかないと思っています。(これが、民主主義体制下の議会主義の原則でもあると思っています。)

しかし、ここで考えなければならない事が幾つかあります。その一つは、「我々は日本という閉じられた世界の中に住んでいるわけではない」という厳しい現実であり、もう一つは、「人間の本性」、特に「白紙から全てが始まる、従って好奇心旺盛な、若い人達」の基本的な性向です。

最近或るドイツ人から聞いた話では、旧東独の田舎町に行くと、今でも共産主義体制の昔を懐かしむ中高年層の人達は結構多いらしいのです。つまり、彼等にとっては、「慣れ親しんだ生活様式を守ってさえいれば何も心配はなく、普通に生活していけた昔の方が良かった」という事なのです。しかし、そういう町にはもう若者達はおらず、働く場がないので帰っても来ません。若者達は、東欧やロシアの若者達より高い生産性を身につけ、より豊かな生活をしたいのです。

子供の頃「山で兎を追い、川で小鮒を釣っていた」老人達は、古き良き昔を懐かしみ、パソコンや携帯端末と睨めっこしている孫達のことを、「こんなことでよいのか」と心配するでしょう。しかし、兎を追い小鮒を釣っているだけでは、孫達は、いずれは他のアジア企業の下請けに甘んじなければならなくなるのです。いや、その前に、彼等はさっさと大都会に出て行き、そこでの生活に慣れ親しんでしまいます。

本筋の議論に戻ります。国家(公共)事業のことです。

公共事業が嫌いな人でも、「公共事業なんかゼロで良い」と考えている人はいないでしょう。地方に出来たガラ空きの高速道路を批判する人も、「高速道路なんか一つも要らない」とは思っていないだろうし、「そんな仕事は民間で出来る」とも思っていないでしょう。要するに「必要なものは必要だが、無駄なことはするな」ということなのでしょう。

何事においてもそうなのですが、公共事業にも、「良い公共事業」「悪い公共事業」「普通の公共事業」があります。「良い公共事業」は、常に必要であり、「悪い公共事業」は、どんな時でもしてはなりません。「普通の公共事業」は、「景気刺激策」として、或いは「雇用対策」として、時に応じて行うべきでしょう。「悪い公共事業」とは、「費用対効果」が極端に悪く、「国民の税金が、一握りの人達の権力の維持に使われている」のがミエミエになっているような事業です。これを見抜くのはそんなに難しいことでもないでしょう。

また、公共事業を嫌う人達は、その「不効率さ」や「不透明さ」を責めます。しかし、それも工夫によってある程度は改善できることです。これについて私が提案するのは下記の五原則、即ち、第一に「徹底した情報公開」、第二に「全ての購買の公開入札」、第三に「一般市民の目安箱」、第四に「天下りの根絶」、第五に「理事会への民間の企業人等の登用」です。こういう事をやりもしないで、唯「公共事業は不効率だ」と決め付けるのも如何なものかと思います。

次回には、「それでは、『良い公共事業』とはどんなものか」について述べます。

アゴラの最新ニュース情報を、いいねしてチェックしよう!

アクセスランキング

  • 24時間
  • 週間
  • 月間

過去の記事

ページの先頭に戻る↑