「量的緩和」という物語

2010年10月22日 09:48

率直にいって、マクロ経済学を学んだだけでは金融政策を理解するために十分ではないと思われる。金融政策のトランスミッション(伝播)メカニズムを正しく理解するためには、準備預金制度や短期金融市場などの金融政策に関連する制度的機構についての金融論的な知識も必要だからである。

とはいっても、通常の議論のためには勘所となるポイントさえ押さえていればよいのであって、分かってしまえばそれほど難しい話ではない。とりあえず押さえてほしいポイントは、金融政策は中央銀行と民間銀行の間の取引を通じてしか遂行され得ないというところである。この点が必ずしも理解されていないことから、無用な混乱が生じているきらいがあるので、この機会にできるだけやさしく説明しておきたい。


貸金業者と銀行の大きな違いは、貸金業者は借り手に現金を渡すかたちをとるのに対して、銀行は自行に設けられた借り手の預金口座に振り込むかたちをとる(その後、借り手は預金を引き出すことで現金を入手する)ところにある。そのため、銀行から金を借りようとして、もしその銀行に口座を持っていなかったら、預金口座を作るように促される。換言すると、銀行が金を貸せるのは自行に口座のある相手だけである(この貸金業者と銀行の違いが後者にのみ信用創造機能がある理由になるが、その説明はここでは省略する)。

この点は、中央銀行の場合にも同じで、中央銀行が直接に金を貸せる相手は、中央銀行に当座預金口座を持っている金融機関と中央政府(国)のみである。中央銀行は民間企業や家計に直接に金を貸すことは(原則的には)できない。さらに日本の場合には、財政法の第5条で日本銀行が政府に直接に貸し付けることは原則禁止されているので、日本銀行が直接に金を貸せるのは、民間金融機関に対してだけである。それゆえ、日銀が資金供給を増加させると、その時点では民間金融機関が日銀に保有する当座預金口座の残高(準備預金)が増えるということになるだけである。

この準備預金は民間金融機関のものであるから、それをどう使うかは民間金融機関の判断しだいということになる。どう使えと命令する権限は、日銀にはない。ただし、金利が正の(正確には、短期金融市場金利が準備預金に付く金利水準を上回っている)状況では、資金を日銀当座預金口座に寝かせておくと逆ざやで損失につながるので、民間金融機関は貸出を活発化させるような行動をとるはずである。すると、日銀が供給した資金が市中に出回り、金融緩和効果が生じることになると期待できる。

ところが、金利がゼロの(正確には、短期金融市場金利と準備預金に付く金利水準に差がなくなった)状況では、話は基本的に違ってくる。というのは、資金を日銀当座預金口座に寝かせておいても、とくに損になるということはなくなるからである。もちろん、貸出を増やせば利益を見込めるという機会があれば、民間金融機関は資金を使おうとするであろう。しかし、そうした機会が見出せないということになると、民間金融機関は日銀が供給した資金をそのまま日銀当座預金口座に寝かせておく行動をとることになる。

そうした行動(これを俗には「ブタ積み」と呼ぶ)を民間金融機関がとる限り、資金は日銀の外に出て行かず、金融緩和にはならない。この意味で、日銀の外に資金が出ていくかどうかの鍵を握っているのは、民間金融機関である。そして、金利が正の状況では、中央銀行が民間金融機関の行動を誘導することは比較的可能であるとしても、金利がゼロになった状況では、誘導する手立てはほとんど存在しない(ひもで引くことができても、ひもで押すことはできない)。

換言すると、準備預金の残高が大きいほど金融緩和が進んでいるという見方がしばしばみられるが、これは全くの間違いである。民間金融機関の貸出が増加して必要準備の額が増えているのであれば、確かに金融緩和が進展しているといえる。しかし、「ブタ積み」の結果として超過準備預金残高が増加している場合には、日銀が緩和策をとったにもかかわらず、資金が世の中に出ていかない(それゆえ金融緩和が進展していない)ということを示しているに過ぎない。

したがって、こうした事実を正しく認識している者にとっては、準備預金残高をターゲットとした量的緩和政策というのは、欺瞞でしかなく、それを実施するのは内心忸怩たるものがあると推察される。資金が世の中に出ていかないという機能不全の結果の「溜まり」の増大を緩和拡大と称しているだけだからである(準備預金の供給を増やせば、その一部くらいはしみ出していくのではないか<ポートフォリオ・リバランス効果>という期待は、過去の経験ではほとんどかなえられなかった)。

もちろん、そうであっても、世間の多くの人々がそのことを金融緩和が拡大していると「受け止めれば」、なにがしかの効果が生じる可能性はある。ただ、それは誤解ゆえの効果である。現状では、この種の誤解が広範に抱かれているとみられる。以上の意味で、量的緩和が「緩和」だというのは、理論(セオリー)ではなく、物語(ストーリー)である。ただし、多くの人々は、理論に従って行動するのではなく、物語に影響されて行動する(注)。

(注)例えば、G・A・アカロフ=R・J・シラー『アニマルスピリット』東洋経済新報社の第5章を参照されたい。

すると、誤解であっても、利用できるものは何でも利用して緩和の実をあげるべきなのか。誤解はいつか解けてしまうから、そのときの反動(中央銀行の信認に対するダメージ)も考慮すると自己欺瞞は回避するように努めるべきなのか。日本の金融政策運営に関して本当に残されている選択肢は、こうしたものでしかないとみられる。それゆえ、日銀にはいろいろとやれることがあるのに意図的にやらないでいるといった見方は、上記のような誤解に基づく大いなる買いかぶりに過ぎないのではないかと思う。

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なお、日銀がお札を刷って配るというのは、ここでいっている量的緩和ではなく、国債のマネタリぜーション(貨幣化)による財政ファイナンス(ヘリコプター・マネー)という話である。しかし、量的緩和という表現を広義に用いて、ヘリコプター・マネー的なことも包含するかたちで語られることがある。このあたりは、もっと厳格に区別して議論した方がよいと思う。財政ファイナンスについては、次の機会にでも話をすることにしたい。

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