幻想には幻想の価値がある。

倉本 圭造

最近、あるクライアントと雑談していた話の流れで、突然ウルフルズを聞きたくなって、照れながらも聞きまくったということがありました。

公式チャンネルなのでリンクさせてもらいますが、「サムライソウル」って曲とか、いいなあ・・・とか。

いや、こういうの好きっていうの凄い照れるし、関西に住んでいたころはむしろちょっと苦手にしていたんですけど、ふと今聞いてみると、いいなあ・・・みたいな。「ロマーンティックな男やからね」とか。

今時「サムライ」とか言い出すのがイタイという感じは凄くありますし、なんか、結局こういう「ロマン」と「そろばん」が全然噛みあってない現状はぜひともなんとかしなくちゃいけないんですが、だからといって、結局これは「そんなもの幻想なんだよ」と押し切るだけでは決して解決しない問題なんじゃないかと私は思います。

「幻想か?」と言われると幻想なんだけれども、人間「幻想」なしには生きていけないわけで。


個人としての人間などは遺伝子の入れ物にすぎないかもしれないし、万人の万人に対する闘争状態から遠ざけるための、愛だの友情だのといったアレコレの文化的ソフトウェアは結局本来そこにある対立を誤魔化してナアナアに共存させるためのソフトウェアにすぎないかもしれないが、だからといって、我々一人一人はその「幻想」を生きているわけなので、そういうの一切なしに生きていけるわけではない。

個人レベルでもそうだし、集団レベルで言ってもそうなわけですよね。

今の日本を覆っている「ナアナアな幻想」が嫌だなあ・・というのは、結構広い範囲に共有された「感じ」だと思うんですよ。しかし、じゃあその「ナアナアな幻想」を壊して「現実」と向きあおう!!という時の「現実」っていうのは一体何なんだろうか?と考えると、結局それも「新しい幻想」にすぎないとも言えるはずで。

「ナアナアな幻想」には、色んな個人の奥底の、そのままではどうしようもなく鬱屈してたまに不幸にも通り魔連続殺傷事件なんかに噴出せざるを得ないような感情の動きを、うまくストーリー付けて大きな物語として共有し、「意義あることをみんなでやろう」という方向に練り上げるための、非常に「機能的な役割」があるわけなんですよね。

ただ、それが時代遅れになってきて「うまく機能していない」から問題なだけなんで。

だから「取替えなくちゃ」いけないわけですが、それを新しく作るとなったら、必要なのは、「そんなの幻想なんだよ!!」って否定だけすることではなくて、「新しい魅力的な幻想」を提案していくことではないかと思います。

「ナアナアで時代遅れになった幻想」を捨ててでも乗っかりたいと思えるだけの「新しい幻想」を作っていくことに注力しなくちゃいけない時代なんだというか。

なんだかんだ言って家族と一緒にいるとホッとするし、こういう関係を失わずにやっていきたいよね、でもあまりに縛り合うとウザいよね・・・という感じのところに、ただ「家族愛なんて幻想なんだよ!悪しき家父長主義の残滓なんだよ!」という論理だけで切り込んでも現実的な改革は進まない。それに乗っかれるのは一部の超個人主義者だけです。

「無理やりお互いを結びつけて嫌な思いをするような家族愛は捨てちゃいたいけど、でもお互いの生の寂しさをうまく補完しあえるスキームと、それに没入できる物語は欲しいよね」ぐらいのあたりの「新しい幻想の提案」をこそ、今の日本は必要としているのではないかと思います。

その時には、「日本人の呑気さ」「日本人のピュアさ」「日本人のお人好しさ」を、単純否定しないでうまく使っていくべきだし、その時には結構「久々に聴いたら恥ずかしいけど悪くないな」っていうようなモノを見なおしていくことが大事なんじゃないかと思います。

先日の、新清士さんのガンダムに関する記事を読んでいて思ったんですが、最近のガンダムの「あまりにお人好しすぎる展開」に、「恥ずかしい思い」を持ってしまうのは私も同じ気持ちであるとはいえ、「じゃあどうすれば?」となると、やはりその「恥ずかしくなるほどピュアな」部分からあえて逃げないように一貫して考えて行かないと、結局日本が「自分たちの良さを徹底活用して成功する」などということは不可能なのではないでしょうか。

「国民的アニメ」が「どうしてもそうなってしまう」なら、それは我々の「避けられない深い部分の性質」なのであって、その「根っこの性質」を否定する方向で「高いパフォーマンス」が安定的に広範囲に出せるとは思えません。

だからといって付け込まれて損ばかりする・・・みたいにはならないようにしつつ、でも「自分はこういうことに価値を感じる」という部分については真剣に追求していかないと、それこそ多文化共生の時代にさらに「何考えているかわからない」人たちになってしまうんじゃないでしょうか。

日本においてあらゆる「改革」が進まないのは、「ナアナアな過去の延長」を「破壊」するエネルギーの中に、「過去の延長を生きる人」を納得させられるだけの「新しい幻想を見せる力」が弱い、というかそんなことが必要だとすら思っていない・・・・ことにボトルネックがあるように思えてなりません。

私のこの記事で書いたような、「右翼的なものでなくグローバリズムの延長としての、新しいタイプの愛国心」をひとつの「新しい幻想」として提示していくことが、この国の今の迷走に対する新しい軸の形成に役立つのではないかと私は考えています。

倉本圭造
経営コンサルタント・経済思想家
公式ブログ「覚悟とは犠牲の心ではない」
ツイッターはじめました!→@keizokuramoto