憲法は「絶対矛盾を同一」させるものでなければならない --- 別府 愼剛

2013年07月14日 07:00

憲法論議が盛んになって来ているようであるが、今のようなレベルの議論でいいのか、それで本当に「国家百年の計」となり得るのか。現憲法を一つのマニュアル書として、その数条項の内容を変えるようなやり方でいいのだろうか。

現憲法は、元来、絶対王政の国王の権力を制限するところから生まれた所謂英米法に基づいており、その根本の思想は憲法によって国家権力を制限し、国民の自由を保障しようとする立憲主義とされているが、このような古色蒼然とした洋皿に日本の精神という料理が盛りきれるのだろうか。和の料理にはやはり和の器がふさわしいのではないか。


ここで考えられている国家とか国民とかは一体どのような概念なのか。この問に明確に答えることが出来るのか。単なる臆見(ドクサ)ではないのか。国家あるいは国民とはいかなるものか。国家あるいは国民という概念を規定する場合、少なくとも次のようなことが考えられなければならない。

日本の国家の概念には、歴史的客観精神(歴史的共同精神)とその環境である自然環境(国土)、人工環境(文明・文化)、および歴史的共同精神の最先端(現世代)に於ける国民(現世代の主観的精神と客観的精神)、そして歴史的共同精神の象徴である天皇といった諸概念が内包されていなくてはならない。これをわかりやすくDNAに例えれば、DNAが置かれている環境として自然環境(国土)と人工環境(日本の文明・文化)がり、この環境の下に悠久の過去から永遠の未来に向けて歴史的なDNAの束(歴史的共同精神)があり、その象徴として天皇があり、我々国民は現在(現世代)におけるDNAのキャリア(運搬人)であり、キャリアとしての我々は歴史的共同精神を継承すると共にDNAの未来の運命を担っている。このような認識をもって始めて国家や国民の概念が明確になるのではないか。

<現憲法の評価>

日本国憲法は『平和憲法』と言われるが、そもそもここが間違っているのである。憲法には理念と、理念実現の手段とが明記されていなければならない。先ず何よりも目的となるもの(理念)がなければならないが、平和は手段(条件)であって目的とはなり得ない。理念は、例えば、「自己実現」でなくてはならない。人類の自己実現、国家の自己実現、国民の自己実現、この「自己実現」を確たるものにする条件として、平和であること、経済的に豊かであること、文化的に豊かであること等が要請されるのである。戦争の中にも自己実現はあるのである。自己実現が阻まれるからこそ戦争になるのである。国民はこの自己実現の為に自己自身に殉じ、国家に殉じるのではないか。私たちは、この目的と手段とを取り違えた一顧の価値もない愚かな「倒錯憲法」を何時まで後生大事に守り続けるのか。現護憲は日本国の恥であり、日本国民の恥である。

現憲法の前文を見てみると、『背国憲法』であると云うことが分かる。文脈からすれば、国民と国家とを対置して、国民主権をうたっているが、これは明らかに、「国民あっての国家」と言う考え方である。しかしこの考え方の行き着く先は「衆愚政治」である。勿論、反対に「国家あっての国民」となれば、「独裁政治」となり、これが受け入れられる筈もない。

真の民主主義、真の主権在民とは「国民あっての国家・国家あっての国民」でなければならない、「多即一・一即多」という絶対に矛盾するものを統一して自己同一とするものでなければならない。日本の長い歴史が永々と伝えて来た精神、これからも永遠に伝えなければならない精神がこの「絶対矛盾的自己同一」あるいは「即非の論理」であることを全く継承していない。現憲法は全く日本の魂が抜け落ちた愚劣な憲法である。

「国民あって国家あり」とする現憲法の行き着く先は衆愚政治である。この臆見の下で考える国民の「自由」というのは、所謂英語の「free」である。英語の「free」は必ず「from」を伴う、「free from」という概念である。この概念は「何物からかの自由」ということを意味しており、主体的自由を意味するものではない。つまり、国家からの自由という概念が入っているのである。しかし、日本の自由とは読んで字のごとく、「自らに由る」つまり「自主」「自在」ということである。日本に於いては、国民と国家とは決して対立するものではない。ここにも当然、日本精神の喪失がある。従って現憲法は『背国憲法』『反日憲法』ということになる。

さらに、現憲法の前文を見てみると、「政治道徳の法則」という文言が出て来る。この「道徳」という概念は、よく「倫理」という概念と混同される。この前文の「道徳」を文字通りに解釈するととんでもないことになる。

道徳とは客観的規範意識であり他律的規範意識であるが、倫理とは主観的規範意識、自律的規範意識である。私たちは誰でも「私と公」、「自と他」、「善と悪」との間を揺れ動く存在である。従って、神道や仏教では私たち人間を善でもなく、悪でもなく、善にもなり悪にもなる存在であるとしている。神道・仏教は所謂「汎神教」であり、生けとし生けるものすべてに神が宿る、私たちの中に神が宿っているとしている。私たちは「私と公」・「自と他」・「悪と善」の間で揺らぎながら、何れの方向に行くかを選択する「絶対の自由」が与えられている、すなわち「倫理的意志」が約束されている。従って、神道・仏教は主観的宗教・自律的宗教であり、「倫理の宗教」である。

一方、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教等の所謂一神教では、人間は悪である、すなわち「性悪説」である。「私と公」・「自と他」・「悪と善」の間で揺れ動くことは許されていない。ただ、信者は新約聖書やコーランや旧約聖書で神の教えを学び、公・他・善に生きることを誓わされるのである。従ってこれらの宗教は客観的・他律的宗教であり、「道徳の宗教」である。

このように一神教と汎神教(多神教)との違いは決定的である。憲法の前文では「政治道徳」という文言が使われているところから、この憲法は既に自律的憲法ではなく、他律的憲法である。この他律的憲法は客観的であるが故に、説得力をもち、66年もの長きにわたって私たちの憲法改正を許さなかったのである。

日本を除く一切の国々の民主主義は「多即一」すなわち「国民あっての国家」としている。「多即一・一即多」という矛盾の自己同一というものは所謂論理的には考えられないのである。この論理は「知の論理」ではなく、「行の論理」であるが故に決して「知の論理」を以てしては理解出来ないのである。

神道では「言挙げせぬ」、仏教では「不立文字」といって、何れも知によるいかなる思想化も否定している。ここにこそ行をもて立つ真の宗教の魂があるのである。それでは一体、「多即一・一即多」という絶対の矛盾を自己同一とするもの、統一するものは何か。これこそが「倫理」なのである。私たちは終日「私と公」「自と他」「悪と善」の間を揺れ動いている矛盾した存在である。この矛盾を統一するものこそが「倫理」なのである。倫理は統一力であり、意志であり、実践である。このことが理解されれば、日本という国が「倫理を以て立つ国」すなわち『倫理立国』であると云うことが理解出来る筈である。日本の憲法が拠って立たなくてはならないものは、この倫理をおいて他にないはずである。「日本の倫理」、これこそが日本国民の理念、日本国憲法の理念とならねばならない。

別府 愼剛
僧侶

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