神は本当に偉大か --- 長谷川 良

2014年12月23日 14:21

フランスで12月21日、「神は偉大なり」(アラー・アクバル)と叫びながら、一人の男が車で通行人を次々とはねるという事件が起きた。このニュースを読んで、「神は本当に偉大か」という今回のコラムのテーマを考えた。

こんなタイトルのコラムを書く当方は不敬な罪びとであり、神が最も嫌う傲慢な人間だ、と思われるかもしれない。だから少し躊躇したが、やはり書き出した。「神は本当に偉大か」の問いかけに対し、当方は素直に「イエス」と首肯できないのだ。


「神は偉大」だ。多くの科学者は神に出会っている。宇宙や万物世界を研究する科学者は、その緻密で精巧な世界に驚愕し、「このような世界が偶然に誕生したとは到底考えられない」という。

それではなぜ、「神は偉大」という問いかけに「イエス」と答えないのか、と追及されれば、「神は偉大だが、その偉大さはこれまで発揮されずにきた」と考えざるを得ないからだ。

考えてほしい。「神は偉大」だ。全知全能の神だ。にもかかわらず神が創造した被造世界にどうして紛争と戦争と殺人が繰り返されるだろうか。全知全能の神ならば、ハリー・ポッターのように、杖の一振りでその紛争や戦争を停止させることもできるはずだ。それができないとすれば、「神は本当に偉大か」といった疑問が湧いてきても不思議ではない。

実際、神の偉大さを疑い、神から去っていった多くの人々がいた。スウェーデンの代表的作家アウグスト・ストリンドベルクは、「子供の時から神を探してきたが、出会ったのは 悪魔だった」と嘆いている。

それでは、なぜ「偉大な神」がその全知全能を発揮できないのか、なぜ「偉大な神」はあたかも無能な主人のように、涙する人間を目前にオロオロとするだけで、救いの手を差し伸ばすことができないのか。「神の偉大さ」を阻んでいるのは何か、という深刻な問題が出てくる。

その答えは、人間始祖アダムとエバを堕落させた天使ルーシェルというより、われわれ人間自身にあるように感じる。われわれが「神の偉大さ」を顕現させないようにしているのではないか。

旧約聖書の創世記を読むと、「偉大な神」は自身の似姿として人間を創造された。私たちは本来、“第2の神”のような立場であり、「神の偉大さ」を相続した唯一の存在として創られた。釈尊が言ったように、「天上天下唯我独尊」の存在だったのだ。しかし、堕落することでエデンの園から追放され、世界の“ディアスポラ”となってしまった。

神は堕ちた人間を魔法の杖で救うことができないのだ。なぜならば、神の似姿に創造された人間は「神の偉大さ」を相続しているからだ。すなわち、人間には“自由意思”があり、神はそれに干渉できないからだ。換言すれば、人間は神のロボットではなく、息子、娘として創造されたからだ。そこに人権尊重の本来の起源もある。

「神は偉大」だが、自身の息子、娘をその全知全能を駆使して救済できない立場に陥っている。川で溺れている自身の子供を眺めるだけで、救えない親は哀れだ。同じように、「偉大な神」の無能な姿こそ、私たちが日頃「神」と呼んできた創造主の事情ではなかったか。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年12月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。


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