「同性愛」承認への最大のハードル --- 長谷川 良

2015年08月15日 14:28

キリスト教会はローマ・カトリック教会ばかりか、プロテスタント教会もその聖典は聖書だ。神からのメッセージとしてそれを絶対視してきた。その聖書を無視したり、勝手に付け加えたりしてはならない、と信じてきた。その聖書は世界最大のベストセラーであり、ほぼ全言語に訳されている。

しかし、実際は、その聖書は頻繁に無視され、勝手に付け加えられたりしてきた。その結果、キリスト教会は300を超えるグループに分かれ、いずれもキリスト教会と名乗っている。キリスト教会の分裂の主因は皮肉なことだが、その聖典の聖書にあるわけだ。

そして今、キリスト教会は大きな挑戦を受けている。同性愛を認めるか、それとも聖書が記述しているように、絶対に承認しないかの選択を迫られているのだ。現状は前者の傾向が強まっている。

聖書は旧約聖書と新約聖書から構成され、全66巻から成る。旧約はアダム・エバの創造からイエス誕生までの4000年の歴史が記述されている。新約聖書はイエス誕生から使徒たちの宣教、そして最後は、黙示録で終わっている。

ところで、ここにきて旧約聖書を聖典から除外すべきだという声が強まっている。理由はシンプルだ。旧約の内容が21世紀の社会と合致しなくなってきたからだ。その代表的な例が「レビ記」だ。旧約の「レビ記」は、はっきりと同性愛を批判しているのだ。「レビ記」はモーセ五書のひとつで、律法の細則が詳細に記述されている。

「あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである」(「レビ記」18章22)、「女と寝るように男と寝る者は、二人とも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう」(「レビ記」20章13)という個所だ。同性愛者やその支持者が聞けば、腰を抜かすような厳しい表現で記述されているのだ。

「レビ記」の聖句を順守する限り、同性愛は絶対認められない。ローマ・カトリック教会の総本山、バチカン法王庁教理省長官のゲルハルト・ルードヴィヒ・ミュラー枢機卿やロシア正教のフセボルト・チャプリン大司祭は同性愛反対者で有名だが、彼らは聖書の聖句に忠実なだけだ。一方、プロテスタント系教会は同性愛を認める教会が多い。彼らは早々と旧約聖書を時代遅れとして聖典から外すべきだと主張してきた。「レビ記」がある限り、同性愛は本来、承認できない。だから、多くの新教会はイエスの寛容を重視し、「レビ記」を聖書の正典から外そうとしているわけだ。

リベラルなメディアからはミュラー枢機卿やチャプリン大司祭は「頑迷な保守的聖職者」というレッテルが貼られる一方、「レビ記」を無視して同性愛を認める聖職者たちは「時代の申し子」としてもてはやらされる、といった具合だ。

もちろん、同性愛を禁止してるのは旧約聖書だけではない。新約聖書でも聖パウロは度々、同性愛を批判している。例えば、「コリント人への第1の手紙」6章や「テモテへの第1の手紙」1章では「男色をする者」を批判している。しかし、多くのキリスト教会はイエス自身が同性愛を禁止する発言をしていないことを理由に、寛容と許しを前面に出し、聖パウロの同性愛禁止の聖句を無視しているわけだ。

南米出身のローマ法王フランシスコは、少数派の同性愛者の権利を認める方向にあるが、同性愛そのものについては容認していない。フランシスコ法王の前には、寛容と多様性といった時代の要請を受けて同性愛を認めるか、それとも聖書を死守し、同性愛を拒否するかの選択肢が突きつけられているわけだ。本来、その中間の位置など存在しないのだ。

いずれにしても、正典から「レビ記」追放の動きは、旧約聖書の放棄への前奏であり、最終的には聖書の価値に対する再考を促すことにもなるだろう。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年8月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。


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