ポリコレもグローバリズムもほどほどに

梶井 彩子

hate_speech

■ポリコレ疲れを朝日の論調で言うと……

トランプ氏の勝利で、リベラル寄りの人々は阿鼻叫喚の図を呈している。中で見つけたのは「トランプが当選したからと言って、ヘイトが容認されるわけではない」といった趣旨のコメントだった。それはその通りだろう。

ポリコレ疲れは、「疲れ」ているだけで、トランプを支持した人たち全員が「誰かを差別したい」「ヘイトをぶちまけたい」と思っているわけではない。

疲れの原因は「差別を禁じられていること」ではなく、「『差別』ではないかと指摘される範囲が際限なく拡大し、あれもダメ、これもダメと言われて窮屈になっていること」だろう。アメリカでは、「メリクリも言えないなんて」が日常になってしまっているというのだから。

朝日新聞などは、まさしくネットで言うところの「ポリコレ棒」を振り回す警官だ。しかもそのポリコレには「愛国心を持つな」という、人種や宗教等々とはまた違った独自の要素が盛り込まれている。

以前、「朝日新聞は『戦勝国の特高警察』だ」という記事を雑誌に書いたことがあるが、まさにポリコレ棒を振り回す思想警察の如き朝日新聞なのである。

当該記事から引く。

《〈(ヘイトスピーチを)「誇りある日本国民として恥ずかしい」「日本人としてやめなければならない」という物言いにも違和感を覚える。差別を受け、恐怖を感じている被害者への視点が抜け落ちてはいないか〉(一四年九月六日の朝日新聞の社説)

 

以前にも朝日は天声人語で道徳教材に関し〈「日本人としての自覚」「我が国を愛し発展に努める」といった記述に、ふと立ち止まる。食事中に砂粒を噛んだような感じがする〉(一四年三月七日)と書いたことがある。

朝日に任せていては「日本人として誇らしい」などの物言いも、ともすればヘイトスピーチとされかねない勢いだ。》

「食事中に砂粒を噛んだような感じ」とは、相当の不快感だ。

つまり、朝日のポリコレ的には「日本はいい国」という発言も、「では他国は悪い国なんですか」となり、「日本に住む他国の人に配慮し、そのような考えは改めるべき」というのだ。もっと言うと、「日本はいい国」というそれすらも「いつか来た道」に繋がると考えている節がある。要するに日本人であるだけでアジアに対する罪を背負っているという「原罪」を背負わせ、棒を振りかざして謝罪を迫るのだ。

これでは疲れるに決まっている。

朝日新聞の記者だって、「朝日の記者」というだけで慰安婦報道の「原罪」を背負っているのだから、ともかく常に平身低頭にしていろと言われ続けたら反感を覚えるだろう。ほどほどにしてもらいたい。

■「グローバル化か鎖国か」の極論

朝日新聞はさらに、トランプ大統領のもとで「反グローバリズム」が広がることを懸念している。当選確定翌日の社説では、グローバリズムによって〈取り残された人〉が少なくない数、発生し、そうした格差と変化が生む社会の動揺に、各国の政治が向き合っていないことを指摘する。

この点、全くそうで、今月号の「フォーリン・アフェアーズ」がポピュリズムを特集しているが、その論調を見ると、ポピュリズムが席巻している国々は、グローバリズムが進んでいる国と重なっている、とする。だがそのポピュリズム言説を「悪だ」と圧殺するだけでなく、きちんと向き合って摩擦を解消することで民主主義の発展に資する、とする論文も掲載されている。

グローバル化で「ヒト・モノ・カネ」が自由に行き来すると言うが、ヒトはモノやカネとは違う。行き過ぎたポピュリズムを止めるには、行き過ぎたグローバル化、中でも移住を伴うヒトの移動を多少、抑制すればいいと思うのだが、朝日社説はそうは言わない。「朝日の論調が嫌った『国家』という枠組みが溶解した結果、新たに生まれた問題が山積みになったので、今一度『国家』という枠をちょっと締め直そうという動きがあるんですよ」という話なので、自分たちの誤りを認めなければならないから、自由化を止めるなと言うのかもしれない。

そもそも、グローバル化からくる問題を批判をしたとしても、多くの場合は何も鎖国せよと言っているわけではない。ほどほどでいいのだ。

■極論をやめよう

ポリコレとグローバリズムを巡る論争は極論になりがちだ。日本の言論空間では(いわゆる「保守」内部でも!)新自由主義批判も強烈だが、新自由主義批判者に対する「共産主義者」というレッテルも、行き過ぎの感がある。差別も同じ。「ポリコレ疲れなんて言って、あの黒人差別の時代に戻る気か!」という人もいるが、(あの反知性的な奴らは)少し緩めたら一気に先祖返りするぞ、というその極端な発想はどうか

白か黒か。1かゼロか。それしかないのか。これが「リベラル」なのか?

完全に自分の思う理想だけが実現される社会など、永久に来ない。それを受け入れられないからこそ、一部リベラル(?)層からは、「トランプ支持派を粉砕したい」などという過激な暴言も出るのだろう(これはポリコレ的に許されるのでしょうか)。今回、紛糾している人と一部重なると思うが、安保法制の時に「賛成派は反知性的=バカ!」とやって支持を得られなかったことを思い出したほうがいい。そのやり方では勝てないのだ。バカで結構。バカと言われようがなんだろうが、彼らは(私たちは)存在しているのである。ならば上記論文のように「きちんと向き合って、それをも組み込んで民主主義を練り上げていく」方策を取るべきだろう。

一同、奮励努力して、各陣営がほどほど我慢できる「ほどほどの社会」(民主主義の均衡点)を形成したいところだ。今の混乱は、その実現のための過渡期だと信じたい。なお、この理想の実現には、ネットや言論ではともかく、現実の政治では「落としどころ」を探しがちな日本人の性質が生かせるのではないかと期待する。

(アイキャッチ画像:いらすとや)