期末雑感①1年の授業が終わって、私が学んだことなど

先週、最後の授業を終えてから、卒業生の作品展、新入生の勧誘と重要行事が続き、昨日(6月22日)、ようやく春季授業の成績評価も完了した。昨年の秋季授業から始まり、ちょうど1年のサイクルを経験したことになる。

学生が授業中に発表したPPTや期末の論文はすべてデータで回収し、そこにコメントを書き込む。文章の評価すべき箇所にはアンダーラインを引き、その基準を記入する。政府の教育部門が、適正な試験、評価が行われているかどうか、審査に入ることもある。最後は校内のフォーマットに評価方法や基準、採点結果、さらには反省点を書き込み、ボタンを押せば「提出」となる。

「提出」までには何回も学部教務課のチェックが入る。点数の修正には厳格な手続きが必要で、修正・訂正が2回続くと教師にマイナス評価の記録が残る。場合によっては降格の対象となる。教師1人に対し学生の助手が1人割り当てられ、慎重に確認作業が行われる。学生の作品は一括してフロッピーディスクに収め、一緒に提出する。この作業中、紙は一枚も使わない。完全なペーパーレス化だ。

成績は100点満点の評価になる。人に点数をつけるのは気分のいい仕事ではない。以前、新聞社にいたときの人事考課も同じような気分を味わったが、記者の現場は仕事の結果が明らかなだけましだ。人を育てる場で、例えば、学生が書いた文章を数字で評価するのは果たして適当か。自分がその作業をやりながら、それぞれの学生の顔が思い浮かぶ。気が付くとみんな90点以上になっている。では90点と92点の学生がいて、2点の差は何かと問われたら、100%満足のいく答えは出しようがない。せいぜいABC、優良可ぐらいにしてもらえないかと思う。

学生の顔を思い浮べながら、最後の微調整をする。整然と並んだ数字とにらめっこをし、不公正が生じていないかをチェックする。授業をさぼらず、姿勢正しく、真剣なまなざしを向け、一生懸命ノートをとっていた学生にはどうしても気持ちが動く。いつも最後列に腰かけ、しばしば「逃課(タオクー)=ずる休み」をする学生は、論文でどれほど立派な意見を述べていても、その真意を疑ってしまう。何がフェアなのか、自問自答しながらの作業となる。能力は当然、正当に評価されるべきだが、同じように、あるいはもっと熱意が認められてよいと思う。

若者にとって大事なのは、能力よりも、熱意、意志、努力なのではないか。これは記者時代のモットーでもある。「自分に熱意があり、それを貫く意志があり、それに向かって努力をすれば、必ず道は開ける」と肝に銘じてきた。この三つがあれば、いずれ若い能力は無限の可能性をもって切り開かれていく、と信じる。だから、目立たなくても、地道に努力をしている学生に高い点数をつける。客観的な基準など存在しない。客観報道がメディアが責任逃れをするための方便であるように。むしろ問われるのは主観が公正で、健全であるかどうかだ。つまり、責任を担う覚悟があるかどうかである。

責任は、一人一人の学生と向き合うところからしか生まれない。この1年、多くを学んだのは、私の方かも知れないと思う。

教室でいつもにこやかにしている女子学生がいる。化粧もちゃんとしていて、服装もオシャレだ。だが、友だちと一緒に席をとるのではなく、1人でポツンと腰かけている。彼女の書いた文章を読んでハッとする。こんな笑顔の奥に、想像もできないような苦楽の経験が広がっている。とてつもなく大きな国、計り知れない複雑な表情を持った社会で、学生たちはそれぞれの歩みを経てここに座っている。私は、その一つ一つの表情と真摯に向き合い、対話し、理解しようと努める。容易ではない。だが、愛情をもって、根気強く、心を砕けば、必ず心の扉は開かれる。彼女が私に書いた文章は、その対話の一部なのだ。

統計の数字がある。「何パーセントの人は・・・だ」、「何百万人の人が・・・だ」と。それがいわゆる客観的な尺度だとみなされている。だが私たちは同時に、その数字の裏に、一人一人の表情があることを忘れてはいけない。数字で人間をはかることなどできない。「主観」を口実に逃げるのではなく、煩雑さを厭うことなく、真実と目をそらさずに向き合い、理解する努力をもっとしてもいい。

現地も知らずに中国を語る無責任な日本人たちに言いたかったのは、こういうことだ。何回続くかわからないが、1年の総括として、学生たちの声と向き合ってみようと思う。

(続)


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年6月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。