私にとっての読売新聞とは⑥

2017年08月02日 12:00

前川元文科次官をめぐる読売報道について、百歩譲って、すべてが読売側の主張する通りだったとしよう。そうすると読売バッシングの多くは、憶測や偏見に基づく誹謗中傷、袋叩きの集団リンチだということになる。だが読売に正義はあるだろうか。圧倒的な意見表明の手段を有し、安倍政権のためには支援を惜しまない新聞社が、言論機関の名誉を守るべきときに有効な反論をしていない以上、形勢は不利だ。隠者ではないのだから、批判を受け入れたとみなされても仕方がない。世間の多くはそう考えている。

果たして正義はどこにあるのか。私はなお、報道の自由の価値を守るため、みなが納得のいく詳細な経緯説明を求めたい。主張や釈明はもう必要ない。真相が知りたいだけだ。それは報道機関が常日ごろ、外に対して求めている姿勢でもある。人間関係でも同じだが、信用を失うのは一瞬のことだ。それを取り戻す任は重く道は遠い。目先の小利を捨て、時代への責任を自覚した大義をとるべきだ。弘毅の心構えを持たなくてはならない。

読売側の当事者は私もよく知っているが、個人的な感情や利害で発言するつもりはない。また、感情的な読売バッシングに加担されたと思われることも本意ではないことは、すでに明言した通りである。私に対する各方面からの誤解が、この文章を書く動機の一つになっている。

現在の読売新聞にはなんの感情もないが、日本の将来には強い関心と危惧を持っている。日本を離れても、むしろ、離れて眺めることができたからこそ、深まる感情もある。自問自答を繰り返し、深く思考し、反省し、そのうえで発言している。最大発行部数を堅持する読売新聞の問題は、健全な公共の言論空間を模索するうえで避けて通ることができない。

前川氏をめぐる読売報道に権力の関与があったかどうか、その舞台裏の事実関係については、判断の根拠がないので、確定的なことが言えない。ただ、一連の報道が招いた批判には、少なくとも報道機関として負うべき結果責任がある。そのうえで、私の在籍時の経験をもとに、想定される内部事情を分析している。厳格な記事審査プロセスが機能しなかったのは、単なる見通しの甘さなのか。それともそれを承知の上での確信的行為なのか。いずれであっても、世論から乖離した読売の事大主義が問われることになる。

選挙や政権支持率については頻繁に行う新聞社の世論調査だが、たとえ公共の関心事であっても、自社の評価にかかわる問題で行うわけにはいかない。世論形成に重要な役割を果たす新聞自体が、客観性が求められるはずの世論調査を自前で行っていることの矛盾がここにある。他国では、メディアから独立した専門の世論調査機関が一般的だ。日本の新聞社は、世論を選択的に、不公正に利用していると言われても仕方ない。世論を重視しているように装っているが、実は軽視の裏返しなのだ。

中国にいて、日本の中国報道が誤解や偏見に満ち、実態とかけ離れていることをたびたび指摘してきた。単なる不満のはけ口、ストレス発散、嫉妬でしかないものも多い。それは日本人、日本社会にとって、国際認識を誤らせるマイナスでしかない。特に中国批判において突出している読売新聞の責任は重い。この点も繰り返し注意喚起してきたつもりだ。

偏向報道の根っこをたどっていけば、そう書いておくのが安全だからというタコツボ思考に行き当たる。世論への迎合は、世論への気遣いや配慮ではなく、事なかれ主義の表現でしかない。

記事を作成している編集の現場と、実際に部数を左右する販売の現場が離れすぎている。これが特ダネよりも特落ちを恐れる守勢を許し、結果的に世論軽視の思考を育てる根本的な原因となっている。大過のない紙面をつくっていれば、販売店が景品を積んで契約をとってきてくれるのだ。編集現場では「読者が…」「読者が…」と口にするが、仮想の集団でしかない。「自分は…」を語らずに済ませる方便であり、「読者が…」の御旗が、有無も言わさず現場の記者に編集方針を押し付ける口実に使われることもある。

そもそも、大量発行部数の新聞市場はいかにして生まれたのだろうか。まずは、戦中、言論統制のために断行された新聞社の統廃合が、新聞業界の寡占体制を生んだ歴史的背景を想起しなければならない。それがGHQによる米国式民主化の宣伝工作に利用され、戦後に引き継がれた。市場の健全な競争は阻害されるが、経営基盤を安定化させるのには好都合なのだ。戦後、国家による産業保護政策にも通ずる構造である。

日本は人口比の発行部数が世界一の新聞大国だ。だが、日刊紙の数は117種しかない。他の先進国と比較すれば、新聞大国も質的には遅れをとっている。しかも、五大全国紙が市場の半分を占めている現状は、言論の多様性という点から、大国の栄誉ではなく憂慮と呼ぶのがふさわしい。読売新聞が用いている「世界最大発行部数」のキャッチフレーズは、日本の民度を考えた場合、必ずしも誇れることではない。報道の自由はメディア間の競争と不可分だ。競争がなければ自由を追求する精神は育たない。メディアの寡占体制は、報道の自由への責任をないがしろにしかねないという側面にもっと注意を払う必要がある。

(続)


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年8月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。

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加藤 隆則
汕頭大学新聞学院教授、元読売新聞中国総局長

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