ふるさと納税が爆発的に増えています。2008年は81億円程度でしたが、2021年は8300億円余り。件数も5万件が4450万件に増えています。この十数年で寄付をするという行為に人々がまるで覚醒したかのような変化を見せたのです。
比較的若い方に人気のあるクラウドファンディング市場も2014年は220億円規模だったものが現在ではその10倍以上の規模になっているとされます。
ふるさと納税もクラウドファンディングも共に共通するのは「リターン」があること。つまり、お得感が前提であって、純粋な意味での寄付とは若干違います。例えばクラウドファンディングは何か新規事業に一口乗るとその事業の成果品が出来た時、安く買えたり、貰えると言ったおまけがあるわけです。私がかつて参加したアメリカのあるクラウドファンディングでは製品の改良目的の資金調達で既存の製品を格安で購入できるというものでした。そのIT系のガジェットはほとんど使い物にならかったという残念な結果ではありましたが、そういう努力は必要なのでしょう。
最近ではインフルエンサーの方がSNSを通じて寄付を集めることも増えているようです。サッカーの長友佑都選手やYOSHIKI、北島康介各氏らの呼びかけなどで多額の寄付が集まったケースも増えてきているようです。
寄付とは何でしょうか?我々の世代は「恵まれない子に」といったキャンペーン、その後は震災の寄付金や義援金が多く、最近では台湾やトルコの地震の際にもテレビニュースの後にほぼ確実に義援金の案内が出るようになりました。多くは赤十字を通じての支援になりますが、私は赤十字がそれなりの管理費を抜いているが気に入らず、寄付はちょくちょくしているものの赤十字など大規模な寄付団体経由ではやっていません。
また、より明白な目的と使途がないと今後は寄付金は集まりにくいともいえそうです。例えば震災そのものに対して寄付をするというのではなく、震災の被害のどの部分に寄付をするといった特定性とその結果がどうなったか、寄付者に連絡が来るような仕組みが必要だと思うのです。
今までカナダで様々な寄付をしてきて思うのは「あのお金はどういう風に使われたのだろうか?」であります。有益に使われたのか、正直わからないわけです。
当地のあるケースは多額の寄付の要請があり、皆で協力して相当額の寄付を継続的にしたら、それは過去の赤字の穴埋めだったということがありました。過去の赤字はNPO運営者の下手料の清算をしたのではないかと思われても仕方がありません。これでは寄付は「仕方なく」「いやいやながらも」「皆がやるから」「しょうがないよね」になるのです。受け身的であり、本来あるべき「能動的な寄付」は感じられません。
我が母校では1000億円目標の基金があります。先日、会議の時、「この1000億円の基金で何をしたいのですか?」と聞いたら「奨学金」との返事。何かしっくりこないのです。奨学金は貸付型と給付型があります。貸付型も金利アリとなしがあります。では、学校の奨学金もらって入学させてもらった学生に対する学校法人のコストはいくらでしょうか?基本はゼロです。学生を受け入れたところで理工系ならともかく、文系なら先生から個人教授を受けるわけではないので奨学金対象の学生に特定の支出が伴うものはほとんどありません。とすれば奨学金とは基金から学校法人にお金が流れるだけではないでしょうか?つまりよく考えてみれば学校が奨学金目的の基金を集めるというのは学校の懐がどんどん厚くなるように見えるのです。
上記の例はやや極端な話だと思いますが、学校の卒業生が行う寄付、それに基づく基金などの運営はもっとクレバーで共鳴できるやり方と目的意識があるべきだではないでしょうか?
これに関してある支部長から連絡が来ました。「学校法人からの寄付の要請が酷いんだけど」と。寄付に熱い思いがある人もいるけれど寄付の形は今やいろいろです。目的に賛同しなければ寄付はしないしお金は集まらないのです。つまり寄付をしてもらう側からすればそれだけ魅力的なプログラムを作らねばならないともいえそうです。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年3月19日の記事より転載させていただきました。