ダメ政治家がダメになる真因の方を解決しよう。

倉本 圭造

本日6月4日は内閣改造があるそうです。

って、それって結構大きなニュース・・・のはずなんですけど、あまりそういう感じがしないのが少し悲しいところですね。


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熱心な政治ウォッチャーや政治家さんご本人にとっては凄く大きな大イベントであるはずで、次の日の朝刊には閣僚一覧が並び、集合写真も撮るはずで・・・・にも関わらず、この「ええと・・・なんで改造するんだったっけ?」感の白々しさは冷静になってみると結構日本人としてのプライドを傷つけられる部分があります。

日本には色んな良いところがあるぜ!と強く思っている人でも、その「良い部分」に「特に政治とか最高だよね」と言う人はなかなかいないのではないかと思います。

政治をなんとかしなくちゃ・・・という声は沢山あるものの、じゃあどうすれば?となると、「ええっと、まあ、政治はもう、いいじゃん。その話は辞めようぜ」と、まるで手が回らなくて無勉強で受ける定期試験の最後の科目の答案用紙を配られる時のような投げやりの苦笑い気分になってしまうのが日本人の基本モードであるようです。

ただ、政治家が悪い、マスコミが悪い、あるいは「愚民化した今の日本人が悪い」的なことを言っていても状況が変わることはありえないので、

政治家さんたちに対して、どうやったら「政治がうまくいくような“状況”“環境”」を作ってやれるのか?

について、考えてみるのが建設的なのではないか?と、最近私は思うようになりました。自分の国の意思決定を「他人ごと」的に論評せずに済むように。

大飯原発の再稼働に向けての動きも佳境で、なんとか夏の関西大停電は回避できそうな情勢なようですが、この時期にまでずれこんでしまったことに苛立ちを覚える再稼働賛成派の方も多いでしょう。

しかし、自分がもし、今この状況の中で、政治家としてこの問題に大きな発言権を有していたとして、じゃあもっとバシッ!ビシッ!と流れを変えるようなことが出来たかどうか??と考えてみると、少し懐疑的になってしまいます。

むしろ、「敗北宣言」とか言ってる橋下氏などはむしろ、「ちゃんと流れを変える発言を自分の言葉で言った」という時点で、かなり「よくやった」部類ではないかと個人的には考えています。(原発をどの程度再稼働させる方針なのかについて、私は彼とはかなり違う意見を持ってはいますが)

「満点」「完璧」「理想」とは言えないかもしれませんが、これだけ全マスコミが総出で「脱原発方向以外の情報シャットアウト」という空気を作っている流れの中で、自分の政治的パワーを維持しながら(←これが重要です・・・この必要がないなら“合理的決断”なんて簡単ですから)現実的な要請にも応えなくてはならない・・・というあたりの板挟みの苦労というのは、外から見ているのとはまた違った困難さがあると思われます。

この国である程度注目を浴びる「政治家」というポジションでいるということは、四方八方からの物凄い乱気流的な圧力を受け続けながら、なんとか「綱渡り的な空気マネジメント」をしながら自分の席を確保し続けなくてはならないわけですよね。

「その“空気の流れ”から時に逸脱して、決断するべき時に断固として決断することが必要なんだよ!!」

・・・・まったくそのとおりです!!!僕もそう思います!!!

しかし、「本当に大事なここぞという時」に「逸脱して決断する」ことが政治家の器量の凄く大事な部分であるとは言え、現状この日本の政治環境において、なんでもかんでもあらゆる時に「逸脱行為」をしていると、なんか物凄く些細なことで槍玉にあげられて徹底的にツメられ、昨日まで仲間だと思ってた人たちにもみんな数歩引いた他人の顔で「いかがなものかと思う」などと論評されて孤立し、結局その人は政治家であり続けることができなくなってしまいます。

だからこそ、(少なくとも今の日本で)

「政治家であり続けながら意味あることをする」には、ある程度空気を読みながらなんとか誤魔化し誤魔化し妥協点を見つけていきながら、なんとか「いざという時に冒険できるだけの地歩を固める」・・・そういう作業をし続けなくてはいけないんだ

ということです。

そして、その「空気の乱気流の複雑さと不寛容さ」というのは年々高まってきているのであって、「元老」という名に値するような昔の政治家がいかに毅然とした決断力があったことよ!!と嘆いてみるのはフェアではありません。

その「政治家」を取り巻く「環境」が全然違うからですね。台風レベルの「追い風」と「向かい風」の環境の中で陸上のタイムを計られるようなものです。

だからこそ、

「大決断力を発揮した過去の政治家」を礼賛し今の政治家をクサすのではなくて、「今の政治家がやりやすいような“環境”を整えてやれないか?」ということを、もう少し我々は考えるべき

ではないでしょうか?

そのためには、「空気で決まる日本社会って嫌だよねえ」と言い続けてるだけではダメです。その「空気」のメカニズム自体が日本社会の現場的優秀性を確保するための物凄く優秀なソフトウェアであったりもするので、そうやって「空気」から逃げようとすればするほど日本社会において「空気」は「“理性的”に考える存在」を追いすがってきて熱心に邪魔をしてきます。

「逆に」考えてみましょう。

むしろ、その「空気に立ち向かい、空気自体をマネージする」ことに日本社会の「言論」が習熟することによって、欧米が発明した民主主義のシステムを、より深く洗練されたレベルで使いこなせる国に進化できると私は考えています。

「空気の流れ」は、今を生きている人間すべての感情の流れです。そしてそれは、セセコマシイ枠組みで考えれば当然「非合理」なものです。しかし、「そういう感情の流れになっているみんなの真意」のようなものを読み解いて、それが適切に発揮されるような誘導を行なっていけば、欧米人が発明した民主主義システムが、不可避的に持っている茶番劇性を、超えていくような自然的連携が可能になります。

その「環境づくり」の具体的方針については、(そろそろアゴラ投稿の文字数限界を超えるので)、ぜひこの記事の続きを私のブログ記事でお読みください。

上記リンク↑の記事では、戦後日本政治のほとんどすべてを規定したと言っていいと思われる「二つの大決断」と、それを可能にした「背景」を読み解くことで、「決断が可能となる環境」とは何か、それはどう作られるべきなのか・・・について話しています。

倉本 圭造
経営コンサルタント・経済思想家
公式ブログ「覚悟とは犠牲の心ではない」