放射能を話題にする際の説得力とは(1) --- 植之原 雄二

アゴラ

アゴラでは、放射能の害を過大に言い立てる論調に異議を唱える記事が増えている。尤も至極である。これらは、論理の展開もすっきりしているので、これらの記事を読むと誰でも大騒ぎすることではないと理解でき、放射能話題の賞味期限も切れるのであるが、実際は、そうならないところに問題がある。

人間は、論理(論)の正しさだけではなく、感情(情)による直感的な理解を求める。両者がバランスして、初めて冷静で現実的な判断に至る。そうなると、急速に興味が失われる。本記事では、そのための材料の一部を提供したい。


福島原発事故は想定外で、皆が大混乱し、玉石混交の情報が大量に出回った。次の見方は不謹慎かもしれないが、これまでにない画期的商品が特許出願もなく発表されたようなもので、それに乗じて粗悪品も大量に出回ったようなものともいえる。

原発に関しては、再臨界を通り越して即発臨界核爆発のようなトンデモが大手を振って横行した。筆者は、沸騰水型原子炉の燃料設計等に従事したことがあるので、これらが妄説であることは直感的に理解できる。あんなボロボロの燃料で臨界にできるのであれば、1KWHあたり50銭で発電できるかもしれない。核爆発までおこすのであれば、北朝鮮の核兵器開発者は死刑になりかねない。このように言われると、妄説であることを直感的に理解していただけるであろう。

臨界等の原子炉核特性は高度な内容で格調は高い。一般国民が適確に認識するのは容易ではない。もっともらしい事を言えれば、己の知的水準の高さを誇示するアクセサリーにはなろう。結局、その程度である。

臨界等の問題は、原子炉の運用管理従事者には切実であるが、一般国民全てが原子炉の運用管理に従事できるわけではない。臨界問題を理解しようがしまいが、どうでもよいことである。発表直後は話題になっても長続きしない。すでに賞味期限が過ぎている。当時ですら、まともに扱う者は少なかった。例外的に鳩山元首相と平智行元議員によるネーチャー誌(2011年12月15日号)への投稿程度で、現状では、ほとんど話題にならないようだ。専門家レベルで話題になっているのであれば、是非とも紹介して欲しい。

しかし、放射能は、食品等から放射性物質を摂取することによる内部被曝があり、日本国民ならず諸外国民も直接的利害がからむ。どうでもよいでは済まされない。内部被曝を避けるために今日の食材について真剣に検討するのも一概に笑えない。したがって、なかなか賞味期限が過ぎないのである。

アゴラで紹介されている記事は、放射能や原子力の専門家でなくても科学技術に通じている人であれば、異議をはさむとは思えないが、国民の多くは必ずしも科学技術に精通しているわけではない。一読すればなるほどと思っても、「教授」とか「医師」といった肩書きがあり、見るからにエリート然とした人がマスコミを通じて異を唱えれば、疑心暗鬼とならざるをえない。

何か決断する、例えば今日の食材の話題になると、自分自身は、大した問題ではないと思うが騒ぐ人がいるから、といった言い訳はよく聞く。主体性が無いというのは簡単であるが、ケインズの美人投票と同じで、人情としては当然である。結局、権威者、マスコミからの発信を信じざるをえないのである。

教授だ、医師だといっても、教授も色々、医師も色々で、専門外なのにわかったようなことを言う人も多い。このような人たちのなかには、「自分で測定した。」と専門家面するから始末におえない。己の経験を強調しすぎる人は要注意である。過度に偏った経験であれば、無いほうがましである。サーベイメータの読み値だけで被曝線量がわかるほど放射線計測は甘いものではない。

簡易システムでの測定が悪いわけではない。システムが簡易であればあるほど、結果の解釈には高度な専門知識と経験が必要となる。自信をもって主張するからには、本人でなくてもスタッフに高度な専門家が必要である。本来なら、専門性の高いスタッフを強調するはずであるが、そんな気配も感じられない。

一般国民は、放射線測定の難しさを適確に認識できるはずもない。大部分はアカデミズム等と無縁だから、あの教授や医師は信用できない、と意地を張りすぎると、「お前ごときが何を言う」とかえって周囲の反発を招く。常識的な一般国民は、忸怩たる思いをしなければならないだろう。

これらは、原子力や放射能にかぎらず、科学技術全般に言えることではあるが、原子力や放射能の特殊性として、これらは難しいもので理解できる人は殆どいないという思い込みが多いのではないか。しかし、実際は、必ずしもそうではない。理解しているかどうかは別として、放射能に慣れている人は結構多く、彼らは、必ずしもエリートではない。これを簡単に説明する材料として資格試験がある。

試験は誰でも受けたことがあろう。博識で合格間違いなしという人でも、不合格になればそれまでの博識も急速に色あせる。試験の合否のみの能力判断は、必ずしも褒められたことではない。しかし、能力を認めてもらいたかったら試験くらい合格して欲しい、と思うのは人情である。

放射能については、放射線取扱主任者試験がある。自分の受験経験と照らしあわせれば、論者の経歴等から、論者が合格できるかどうかは十分判断できる。放射線取扱主任者試験に合格できそうもない人たちの論評であれば、今日の食材選びといった具体的な決断の材料にするには、あまりにもばかばかしい限りである。

高名な人にとっては、たかが資格試験で自分の見識を問われるのは不本意であろう。しかし、ことは日常生活に関係する。合否は別にしても、たかが資格試験くらいは把握しておかないと不誠実と思うのだが。

これらの資格を取得していると思われる高名な人でも妄説を流している。彼らは別の目的があるか、引っ込みがつかなくなっているようだから、本論とは別の対応が必要である。国民の大多数は、高名な論者と接することはないだろう。

しかし、身近な人で高名な論者を崇拝している人が相手であれば「お前ごときが何を言う」といった暴言にも放射線取扱主任者試験の材料で十分対処できる。高名な人々に乗っかって妄説を流布する人々への対策が重要なのである。

放射能を話題にする際の説得力とは(2)で、放射線取扱主任者試験とその活用について説明する。

植之原 雄二