プラザ合意30年

1985年9月22日、私はニューヨークからハワイのワイキキに向かうところでした。そのニューヨークで歴史に残る為替の合意がなされていることなど全く知らず、ハワイで遊んだあと、日本で余ったドルを両替したとき、はじめて「異変」に気がつきました。「あれ、円に両替するとこれしかない」、わずかな両替だったのにすぐわかるほどの動きでありました。

それから数年後、プラザホテルを所有する会社のオーナーの秘書としてそこに宿泊した際、その歴史的建造物の中で「あの時の両替」を思い起こしながらあれは日本を変えた日だったのだろうか、と考えていたのを覚えています。

そのプラザ合意からちょうど30年が経ちました。あの時の合意は何だったのか、もう一度思い起こしてみたいと思います。

80年代前半、財政と貿易の双子の赤字にドル高で悩んでいたアメリカは抜本的対策を取らないとアメリカ経済が極めて悪化することを懸念し、G5(当時:日米英仏西独)がドル安に向けて協調する約束をしました。これがニューヨークのプラザホテルで締結されたプラザ合意です。しかし、これはもう少し説明が必要です。

この頃、アメリカは日本からの爆発的輸出攻勢で米国内では様々な不和が起きていました。自動車やハイテク産業は特にその矢面に立たされていたと言ってもよいでしょう。ところが、レーガン大統領はそれを防ぐために保護貿易や政府補助を導入することには強く反対したため、解決する方法は他に何かないかと考えておりました。そこで手腕を発揮したのがブッシュ(父)と近い関係にあるジェームス ベーカー財務長官(当時)であります。保護貿易でもない、政府補助でもない、第三の解決方法、ドル安誘導をG5の協力で進めるというものであります。

ところが、プラザ合意によるドル安のクスリは効きすぎました。(例えば発表の翌日は円が20円も上がりました。)アメリカは86年に純債務国に転落します。そこで87年にパリでルーブル合意なるものが成されます。これは変動相場制だった当時の為替にタガをはめ、上下の振れ幅を決め、それを超える場合には協調介入するという仕組みでした。ところがこれは西ドイツが反旗を翻し、協調できず、実質失敗に終わります。アメリカとしては何としてもドル安定化を図りたいところです。

アメリカは西ドイツに協力を要請できない以上、日米関係にすがるしかありません。ところが87年半ばは日本でもバブル景気の芽が出始めていたころです。時の日銀総裁は澄田智です。アメリカは日経新聞を介在させ日銀が検討しつつあった利上げをさせないようワシントン発の記事を通じて日本をけん制します。

更に追い打ちのようにブラックマンディが10月に起きると日銀は金利を上げるタイミングを完全に逸します。その結果、日本経済の小さな泡は大きな泡と変わり、土地と株への資金のシフトが進むのです。

澄田総裁から平成の鬼平、三重野総裁に変わった89年12月、一気に金融引き締めへと転じ、日本のバブルは一気に崩壊、失われた20年につながっていくのです。

アメリカはその時の教訓があるのでしょうか、それ以降、ドル安を基本的に嫌がります。また、基軸通貨としてのドルを支える以上、一定の強さと安定感を維持することは自明の理ともいえるのでしょう。但し、一昨年あたり、オバマ大統領はドル安を通じてアメリカの輸出産業振興策、米国企業のアメリカ回帰政策を推し進めようとしました。米国企業が本来アメリカで落とすべき税金を落としていないという背景もありました。

今のドル円の為替レート、120円というのは心地よいのかもしれません。為替水準についてはいろいろな尺度がありますが、多分、理論上はこれ以上の円安にはなりにくいと思われ、それならば円安の上限の今のレートは日本にとってベストでしょう。(理論は後でいくらでも捻じ曲げられますが。)

一方、同じ為替でも中国の切り下げは火に油を注ぐような結果となってしまいました。短期間で調整は済んだ、と中国当局が発表したのは負け惜しみでもっと切り下げたかったはずです。李克強首相の首は既に習近平国家主席に捧げられたとされるのはこの失敗劇もあるからです。

為替を取り巻く歴史は深いものがあります。そして大きな問題をはらむことが多いのは二国間の相対する相場であることが最大のポイントであります。「両雄並び立たず」と言いますが、私からすれば「為替相場、共に立たず」といったところではないかと思います。

今日はこのぐらいにしておきましょう。

岡本裕明 ブログ 外から見る日本、見られる日本人 9月23日付より