日大アメフト問題は大学のあり方を考える絶好の機会

NHKニュースより

日大アメフト問題が世間を賑わしています。昨日のNHKの7時のニュースでは、米朝首脳会談を抑えてのトップニュースで関西学院大学の記者会見を報じました。今日も、一億総村社会ニッポンは巡行運転です。国民が一つになって、一つの問題に真面目に考える、素晴らしいと思います。こんな国、他にはありません。

先週は海外にいてこの騒動に乗り遅れた私は、録画していたTV番組をザッピングして流れをキャッピアップしました。そこで、驚いたこと、つくづく思ったことをお話しさせてください。それは、日本における大学がいかに特殊な存在かということです。

私が思うに、大学には3つの側面があります。第一は、当たり前ですが、アカデミアとしての大学。学問を学び、研究する場としての大学ですね。第二は、手に職をつけたり、箔をつけたりして就職を準備するための就職予備校としての大学。大学全入時代の今、アカデミアよりも就職予備校の意識が強い学生さんの方が多いでしょう。そして、第三はスポーツをするための場としての大学です。

例えば、サッカーは昔はJリーグがなかったので、サッカーを極めたければ、高校を出たら大学に行ってリーグ戦に出て名を上げて、その後スポーツ部のある名門企業に就職するしか選択肢がなかったわけです。アメリカンフットボールは日本ではそれほどはメジャーではないため、未だにプロリーグが存在しません。そこで、やはり大学が優秀選手が活躍する場になるのですね。

で、日本流の鷹揚さで、この3つを全部混ぜ込んでガバナンスもアカウンタビリティも良くわからなくなっているのが今の大学です。大学はもともと学問の世界への国家の干渉を防ぐため、学問の自由を守るため、教授たちによる自治が重視されてきました。私立大学の場合は理事会があったとしても、知性と意識を持った教授たちが大学のガバナンスとアカウンタビリティを支えていたのです。誇り高いプライドを持って。しかしそれはあくまでもアカデミアのためのものです。就職予備校としての大学に自治権はあまり重要ではないでしょう。むしろ国の助成金をもらったり、税制上の特権がある学校法人の資格を得る必要はないでしょう。更に言えば、スポーツリーグを運営する「クラブ」としての大学にこの構造は沿ぐわないのは明らかです。

日大は日本一のマンモス大学で、いわば国民大学全入時代の象徴です。失礼ながら、アカデミアのシェアは低いのではないでしょうか。私はてっきり日本一の就職予備校だったと思っていました。実際、社長輩出数ぶっちぎり1位なのは有名ですし。

ところが今回批判の的となっている監督は理事長につぐ実質ナンバー2だったことに大変驚きました。アカデミアも実業も押しのけて、日大では体育会系が実権を掌握しているわけです。決して偏見ではないですが、あの監督やコーチを見れば明らかのように、彼らはあまり知性的ではなさそうだし、商売っ気もなさそうです。そんな人が大学自治という聖域、いわばブラックボックスで権力を掌握しているなんて。

それは、あの迷司会者の世論を逆撫でする発言や、言葉は悪いですが、「鉄砲玉」に罪をなすりつけてお務めをさせてムショに入れて労って、「若頭」が「親分」を守り尽くす、反社会勢力のような行動形態になるのは当然です。これはあの監督やコーチの個人的な問題、あるいは日本大学の統治構造の問題というより、乱立しすぎた大学にかつての最高学府の良識を前提とした大学マネージメントの統治構造を当てはめているそのことが問題だということです。

Jリーグのように、連盟がいてチェアマンがいて、クラブチームには監督がいて、経営者がいて、管理・広報サイドがいてそれぞれが役割分担して、選手の力量を最大限に発揮させ、チームの価値を上げ、観客数を増やし、収益を上げて、更に良い選手を獲得するというしっかりとした統治構造・マネージメント構造があります。

大学という一つの屋根にアカデミアと就職予備校とスポーツクラブという目的もスタイルも全く違うクラスターを同居させることには無理があります。ましては反知性的な方がスポーツでの実績で論功行賞で大学の理事ナンバー2になったら、それは悲惨なことになります。北朝鮮並みの独裁国家かブラック企業になることは自明で、その当然の帰結でこうしたことが起きています。

これは私の推論ですが、今回のことが水戸黄門流の勧善懲悪の絵に描いたような「日大劇場」になったから世間の耳目を集めていますが、日本大学でマイナーな例えばインテリジェントなアカデミア系の教授は文化大革命で下方された知識人のような迫害を受けているか魂が抜かれているのではないでしょうか。

この事件をきっかけに、みんなで大学のガバナンスのあり方を考える良い機会なのではないでしょうか。