憲法学者vs.オールド・リベラリスト

篠田 英朗

木村草太氏(新刊より)、田中耕太郎氏(国会図書館サイトより):編集部

憲法学者の長谷部恭男教授や木村草太教授について取り上げたブログを何回か書いた。その後、ブログのコメント欄にいただいた意見を見て、少しだけ補足を書きたくなった。芦田均と田中耕太郎についてである。

芦田均は、憲法改正小委員会の委員長として、国会における日本国憲法の審議に影響を与えた。有名なのが、憲法学者によって「芦田修正」と呼ばれる憲法9条2項の冒頭の「前項の目的を達するため」という文言だ。ここだけを切り取って「芦田修正」と呼び、それは姑息で破綻した修正だと唱え続ける態度は、「通説」憲法学者の存在証明のようなものだろう。(関連拙稿:『芦田修正説レッテル貼りの虚妄』

田中耕太郎は、憲法学者がかつて忌み嫌い、今は利用しようとしている、在日米軍の違憲性を否定した「砂川判決」時の最高裁判所長官である。戦前の東大法学部時代に公刊した『世界法の理論』が有名で、自然法の法規範性を強く主張する立場で知られる。1961年から1970年にかけて、国際司法裁判所(ICJ)判事を務めた。「南西アフリカ事件」における田中の個別意見は、国際法の世界では有名であり、ICJ判事として輝かしい実績を持つ。(関連拙稿:『「砂川判決」理解のアナクロニズム』『長谷部恭男教授の「砂川判決」理解を疑う』

芦田は1887年生まれ、田中は1890年生まれで、ほぼ同世代と言ってよいだろう。20世紀初頭の「大正デモクラシー」に代表される思潮をけん引した世代だ。私に言わせれば、国際法秩序に調和して生きる日本を理想とし、戦前の日本の失敗を、国際法秩序からの逸脱によるものと考える世代だ。

現代の日本の憲法学者が、芦田や田中ら「オールド・リベラリスト」と鋭く対立するのは、現代日本の憲法学が陥っているガラパゴス的性格を象徴するものだ。

「芦田修正」と憲法学者が呼ぶ文言は、9条1項冒頭の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」にかかる。手段としての9条が目指す「目的」のことだ。この「目的」は、すでに「前文」で示されているとおり、国連憲章体制を前提にした国際法秩序の中で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」し、「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」ということだ。

「平和を愛する諸国民(peace-loving peoples)」とは、国連加盟国のことを指す。それらの諸国の「公正と信義(justice and faith)」を信頼するという憲法前文の文言は、憲法9条の「正義と秩序(justice and order)」という目的だけでなく、国連憲章前文の国際法に沿った「正義(justice)」の確立という目的、さらにはアメリカ合衆国憲法前文冒頭の「正義(justice)」の確立という目的と、合致する。

オールド・リベラリストの芦田が言いたかったのは、この憲法の国際主義のことだ。芦田を姑息で破綻した陰謀論者のように扱うのは、ガラパゴス主義宣言のようなものだろう。

第九条の規定が戦争と武力行使と武力による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合であつて、これを実際の場合に適用すれば、侵略戦争といふことになる。従って自衛のための戦争と武力行使はこの条項によって放棄されたのではない。又侵略に対して制裁を加へる場合の戦争も、この条文の適用以外である。これ等の場合には戦争そのものが国際法の上から適法と認められているのであつて、一九二八年の不戦条約や国際連合憲章に於ても明白にこのことを規定しているのである。(芦田均『新憲法解釈』[ダイヤモンド社、1946年]36頁。)

田中耕太郎が最高裁長官を務めている際の1959年「砂川判決」が「統治行為論」だといった不当な評判を受けたのは、下級審の「伊達判決」による在日米軍違憲論のほうが正しいと考えた憲法学者が、同時代には多かったからだろう。「本当は違憲だと言わなければいけないくせに統治行為論で逃げたのだろう」、という思い込みが、「統治行為論」だ!といった非難を生んだのだろう。

今日になって木村草太教授のように、「日米安保の合憲性を判断しただけで集団的自衛権の合憲性は関係がない」と「砂川判決」を解釈するのは、修正主義的なものだ。日米安保は合憲だが集団的自衛権は違憲だ、という議論は、最近になって作られた言い方でしかない。

それにしても、砂川事件最高裁判決の際の最高裁長官である田中耕太郎は、憲法学者にとって分が悪い相手であると思う。長谷部教授や木村教授のように、田中耕太郎を手なずけようとするのは、ちょっと無理筋だと思う。彼の言っていたことは、大枠で、私と同じで、国際法の論理の中で、日本国憲法を理解すべきだ、ということだ。

「自衛は他衛」という有名な言葉は、砂川判決における田中長官の個別意見の中で出てきた言葉だが、田中の意見の影響が色濃く残る形で、砂川事件最高裁判決の主文が書かれたことも自明であると思う。

田中は、著作で次のように述べていた。

「根本原理、即ち民主主義の或る種の原則や基本的人権は普遍人類的性質をもっており、従って自然法的である。・・・人類普遍の原理即ち自然法による制約が存在するのである。というのは、前文が排除さるべき法規の中に『一切の憲法』を含めているからである。・・・新憲法の一つの特徴はそれが国内政治の根本原理を宣明したにとどまらず、国際政治の理想を明白に掲げた点に存する。・・・国際協調、世界の平和に対する熱意に燃えている。・・・普遍的な政治道徳の法則―この中には国際法をも包含するものと解する―は諸国家の上にあって、これ等国家の主権を制限するものである。これは諸国家の上にあるところの、国際法の基礎となる自然法の存在を確認したものと認め得られるのである。・・・今や、我々が真に世界の平和、人類の福祉に貢献しようとする熱意を有するならば、国際法に超国家的基礎を付与することが必要である。国際法は国際社会の法即ち世界法でなければならない。・・・我々は、新憲法が如何に普遍的人類的原理を強調しているか、を見た。それは国内社会と国際社会を通ずる原理である。」(田中耕太郎「新憲法に於ける普遍人類的原理」[1948年])


編集部より:このブログは篠田英朗・東京外国語大学教授の公式ブログ『「平和構築」を専門にする国際政治学者』2018年5月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。