沖縄についての常識10の嘘

2018年10月06日 06:00

沖縄知事選挙を追っかけていて痛切に感じたのは沖縄問題についての、本土の政治家、マスコミ、そして、一般国民の知識の貧弱さだ。

ちょうど『誤解だらけの沖縄と領土問題』 (イースト新書) を出版したので、そこに書いたことを使って「沖縄についての常識10の嘘」を上げてみた。

①沖縄の人々は縄文時代から沖縄にいた

かつて沖縄を通って稲作は日本に伝えられたといった説が唱えられたりして、沖縄は古代から多くの人々が住んでいたと考えられていた。しかし、近年では、沖縄の住民の主流は、平安時代以降に稲作技術とともに南九州から移住してきたとみられている。沖縄を建国したのは源為朝の子だという正史の記述はそうした思い出の反映らしい。

②琉球王国が初めて外交関係を持ったのは明である

沖縄には大和朝廷の緩やかな支配は及んでいたようだが、役所は設けられず、鎌倉時代になってクニができはじめても九州との関係は組織的には行われていなかった。南北朝時代のころ沖縄は三国に分かれていたが、彼らに明は朝貢を勧め船などを提供したので応じた。明は支配は及ばさなかったが、官僚などに福建人を送り込みこれが日本との関係の障害になる。

③守礼の邦とは礼儀を守るのでなく中国皇帝に忠実な国という意味

守礼門は琉球王の即位にあたって明から送られた使節を国王予定者である世子が三跪九叩頭して迎えるための施設である。ここに明の皇帝から忠誠を誉められて与えられた「守礼の邦」という言葉を記した額をかけていた。ソウルにも同趣旨の報恩門があったが、日清戦争ののち破壊されてかわりに独立門が建てられたが、沖縄では戦争で焼けたのに戦後、復元してしまった。

④島津侵攻の経緯

本土との関係は深く仮名も普及していたが、南北朝から戦国の混乱で余裕がなかった。一方、琉球は奄美に出兵し併合した。南九州統一に成功した島津氏は、琉球への圧力を強め、また、豊臣秀吉は島津氏を通じて軍役を要求した。琉球はその要請を一部受け入れる一方、明にも通報した。戦後、琉球が島津への借金を返さない、漂流民救助した幕府にお礼を欠いたなどがあり島津に征服された。明は助ける気もなかった。

⑤明は島津支配を黙認

島津との和平で、琉球に島津の代官が駐在する、奄美を割譲する、明への朝貢は継続して良いが貿易の利益は島津も受けることで話が成立。明はそれを知っていたが公式には認めず。幕府に対しては、島津石高の内数となる。琉球王国高官には華人も多く地元民との対立もあったが、島津の支配は容認。

⑥ペリーは間違いなく日本と断言

日本来航に先立ち沖縄に立ち寄り武力で威嚇してアメリカと琉球の条約が結ばれる。しかし、ペリーは中国でなく日本の一部と断言。

⑦日本への正式併合の経緯

欧米の植民地にされないためにも、近代国際法にそった地位確定が必要となり、日本は清への朝貢を停止させて藩として扱う。ついで完全併合。華人官僚らは抵抗し、アメリカのグラント前大統領は若干の譲歩を日本に勧め、宮古・八重山を割譲するかわりに、本島の日本帰属の承認と中国内地での利権付与で交渉が成立するが、清が最後に拒否し下関条約で宮古・八重山も含め日本帰属が確定。

⑧上杉茂憲県令はなぜ尊敬されているか

明治政府は当初は現地支配層と妥協して旧慣を尊重し、その結果、庶民には文明開化の恩恵が及ばなかった。しかし、上杉茂憲県令などによって内地化が進められて近代化が進み1912年になって参政権も与えられた。ただし、資源がなかったので開発はあまり進まず、むしろ、島民は南洋諸島や台湾にチャンスを求めた。

⑨軍隊が少なかったので戦場になった沖縄

沖縄には大兵力は置かれなかったが、本土攻撃に好都合だったのでアメリカ軍に攻撃された。日本軍は本土攻撃を遅らせるために抵抗したが、その過程で、県民の四分の一が死亡した。この過程で、日本軍の一部が玉砕を強要したり、米軍への協力を疑って県民を殺したりする不祥事が多く起きた。

⑩蒋介石が沖縄を併合しなかった理由

カイロ会談でルーズベルトは蒋介石に沖縄併合を打診したが、蒋介石は日本人が住民である沖縄を併合すると、かわりに中華民族(そんな民族はないがw)の土地である満州や蒙古を取られかねないとして受けなかったが、日本帰属の維持を承認したわけでない。このため、昭和天皇や吉田茂は米軍単独統治とすることで中国の気が変わることを防止。解放後は、蒋介石はその立場を維持し、毛沢東は日本復帰を支持。

⑪佐藤栄作と沖縄本土復帰の真相

佐藤首相は米軍基地の維持と繊維輸出自主規制を条件にアメリカからの返還に成功。台湾は基地維持を条件に返還を黙認。

故・翁長雄志前知事(沖縄県サイト)

⑫沖縄歴代知事の横顔

1972年に本土復帰。初代知事は公選首席だった屋良(革新)。二代目は平良(革新)。三代目は西銘(保守)。西銘は普通の県として自立指向。大田(革新)のときに米兵による少女暴行事件などで緊迫する。経済不振を背景に、稲嶺、仲井眞と保守知事が続く。大田から稲嶺にかけて、野中官房長官らが融和路線。そのなかで、普天間基地の辺野古への移設が浮上。しかし、鳩山首相の「最低でも県外」との発言と撤回で混迷。仲井眞はいったん県外路線を歩むが、容認へ戻る。それに対して、知事の座を狙う翁長が革新と組んで辺野古反対をスローガンに知事となり、政府との関係は泥沼化。

⑬翁長雄志とはなんだったのか

田中角栄的な古い保守政治家。ただし、強い権力欲で共産党と組むことすら躊躇しなかった。

ざっとこういったテーマを扱っています。

誤解だらけの沖縄と領土問題 (イースト新書)
八幡和郎
イースト・プレス
2018-10-07
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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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