動は時を善しとす

『理不尽な環境には「染まる」か「逃げるか」の二択』(16年5月30日)と題されたブログ記事で筆者は、「抗い続けるのは得策ではないです、自分の人生や家族の人生の方が重要ですからね。理不尽な世界に広がる到底合理的とは思えないルールに従えば、楽でしょう」と言われています。

そしてそれに続けては、『もう一つの選択肢は「逃げる」。(中略)世間ではかなりネガティブな印象をもたれる選択肢ですが、僕は賢いと思ってます』と述べられているのですが、私としては染まるとか逃げるとかというよりも、「機が熟するを待つ」ということではないかと思います。

例えば老子の場合、世の状況がこれだけ悪く今出て行っても怨みを買うだけという時には、竹林の七賢人の如く隠遁生活といったものを送っていれば良い、とします。

あるいは老子の「水の哲学」と言われる、次のようなものがあります――上善(じょうぜん)は水の若(ごと)し。水は善く万物を利して而(しか)も争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る。故に道に幾(ちか)し。(中略)それ唯(た)だ争わず、故に尤(とが)め無し。

之は、『最上の善とは、たとえば水の様なものである。水は万物に恵みを与えながら万物と争わず、自然と低い場所に集まる。その有り様は「道」に近いものだ。(中略)水の様に争わないでおれば、間違いなど起こらないものだ』といったような意味になります。老子はあくまでも争いを好まない、謙虚で善良な聖人なのです。

また「障害に逢い、激しくその勢力を百倍するは水なり」とは、「水五訓」とか「水五則」とかと呼ばれる有名な教えの一つです。上記『老子』第八章に「動は時(じ)を善しとす」とあるように、じっと力を蓄えながらタイミングを見極め、その時が来て行動を起こせるようなら初めて動く、ということが大事だと思います。

孔子や荀子は「原(みなもと)清ければ則ち流れ清く、原濁れば則ち流れ濁る」(『荀子』)にあるように、全て本を正さなければならないという考えです。

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