中世ドイツをつくった2人の偉大な皇帝の物語

2020年05月22日 17:30

中世のドイツは神聖ローマ帝国と呼ばれていたというのは正しくない。経緯から言うと、東フランク王国でカロリング王家が断絶したときから、ドイツでは有力諸侯のなかから王を選ぶことになった。適当な継承者がおれば世襲されるが、いないとなにがしか結婚などで縁がある有力者が王になった。

オットー1世(Wikipedia)

ハインリヒ1世は叔母が東フランク王の王妃だった縁でドイツ王となり、それを継いだのがオットー1世だった。このころ、イタリアでは王が死んだ後、有力諸侯が王位を争ったのだが、未亡人となった王妃はドイツのオットー1世に救援を求め、これと結婚してイタリア王を兼ねさせた。

そして、ローマ教皇は彼を皇帝にもしたので、ここでのちに神聖ローマ帝国と呼ばれるようになる帝国が誕生したのである。王はドイツ王はローマ王と呼ばれ教皇から戴冠されると皇帝になった。それと同時にあちこちの王や封建領主を兼ねたが、イタリア王も原則としては兼ねた。それは、1648年のウェストファリア条約まで続いた。

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神聖ローマ帝国皇帝位は、15世紀なかばのアルブレヒト2世とフリードリヒ3世からはハプスブルク家が事実上、世襲することになるのだが、それ以前の皇帝のなかで特に人気があるのは、フリードリヒ2世とカール4世だ。

面白いことに、彼らが宮廷を構えたのは、イタリアのパレルモと、チェコのプラハなので、また、ややこしいのだが、「日本人のための英仏独三国志 ―世界史の「複雑怪奇なり」が氷解! 」(さくら舎)で、この2人の王について書いた部分から、さらにその一部を紹介しておこう。

「最初の近代人」と呼ばれるシチリア育ちのフリードリヒ2世

シチリア島はイタリアでもグルメ垂涎の地であるが、その郷土料理にはローマ、アラブ、ノルマン、フランスなどこの島を支配したさまざまな民族の痕跡がある。カッサータとかヌガーといった菓子類はアラブのものだが、前菜として好んで供されるニシンの燻製はノルマン人のものだ。

11世紀半ばに、フランスのノルマンディー地方からやってきた集団はアラブ人が支配していたシチリア島にシチリア王国を建てた。1194年にシチリア王女コンスタンツァを妃とする皇帝ハインリヒ6世がシチリア王を兼ねることになった。

フリードリヒ2世(Wikipedia)

その息子のフリードリヒ2世はシチリアで育った。アラビア語など9カ国語を話し、動物学に通じ、文芸を保護し、ナポリ大学を創立した文化人で、ルネサンスという言葉を発明したドイツの歴史家ブルクハルトは彼を「最初の近代的人間」と評している。

最近では、塩野七生さんがその伝記を書いて話題になった。

サトウキビなどの栽培を広め、ノルマン人たちが築いた近代的な官僚制度や貨幣制度があり、それが帝国と結びつくことによって広くヨーロッパに普及した。

ただし、この時期は、皇帝派(ギベリン)と教皇派(ゲルフ)の対立が激しく、フリードリヒ2世の幼少時には、教皇派からヴェルフェン家のオットー四世が皇帝になっている。このヴェルフェン家の本家はのちに断絶するが、イギリス王家につながるハノーヴァー家は、この家の分家である。

フリードリヒ2世は、エルサレム王の娘と結婚し第6回十字軍を率いて遠征し、エジプトにあったアイユーブ朝のアル=カーミルと交渉して、10年間の期限付きでキリスト教徒への巡礼を認める、聖墳墓教会の返還、イスラム教徒による岩のドームとアル=アクサー・モスクの保有、軍事施設の建設の禁止というまっとうな条件で和平をまとめてしまったが、この共存策は騎士たちからは不評だった(1229年)。

プラハはドイツ文化圏で最高の都市だった

「グリム童話」に出てきそうな中世ドイツの風景を求めたがるのだが、ドイツの主要都市は近世から現代に至るまで戦火に遭ってるので、あまり歴史的景観は残っていない。

ロマンティック街道(突出して日本人が好きな観光コースだ)のローテンブルクはよい保存状態だが、小さすぎる。

ローテンブルク(Wikipedia)

神聖ローマ帝国の栄光を実感できる大都市はどこかといえば、第一にチェコのプラハ、第二にフランスのストラスブールではないか。とくにプラハには、ユダヤ人居住地ゲットーがヒトラーによる破壊を免れてそのまま残る。

プラハのシンボルは、モルダウ川にかかるカレル橋である。カレルというのは、14世紀の神聖ローマ帝国の皇帝であったカール4世のボヘミア王としての名である。欄干に30体の聖人像が立っている。

ボヘミアの風景(Pérez/flickr)

スメタナの連作交響詩「わが祖国」で描かれるボヘミアの森と野には、古い城館も多いが、カルルシュタイン城はカール4世ゆかりだ。ボヘミアという名前は、ケルト系のボイイ人に由来するが、スラヴ人が進出し、9世紀にはモラヴィア王国(チェコ東部。首都はブルノ)の一部だったが、12世紀に神聖ローマ帝国内のボヘミア(独語ベーメン)王国となった。だから、チェコは帝国内だが、スロヴァキアは帝国外だ。

カール4世(Wikipedia)

14世紀なかばに、ルクセンブルク公がボヘミア王を兼ねることになり、有力諸侯のひとつとして神聖ローマ皇帝を何人も出したので、首都プラハは中欧ルネサンスの中心となり、実質的な帝国の首都といってもよい時期があった。プラハ大学も1348年にカール4世による創立で、ドイツ圏で最古である、

また、カール4世は1356年に神聖ローマ帝国の帝国基本法である金印勅書を定めた。特に皇帝の選挙の方法を安定させた。

選帝侯はマインツ、トリーア、ケルンの3聖職諸侯、プファルツ(ライン宮中伯)、ザクセン、ブランデンブルク、ベーメン(ボヘミア)の4世俗諸侯の計7侯に定める=選帝侯であり、選挙は公開投票により多数決原理に従って行われ、選挙はフランクフルト市で行い、戴冠式はアーへン市で行うというものだった。

この法律は、皇帝の権威を安定化させたが、同時に諸侯の自立性も高めて、統一国家をつくるためには功罪半ばすることとなった。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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