学校の代わりになるのはどこか?公園、学童保育、子ども食堂 --- 工藤 洸

2020年06月01日 06:00

編集部撮影

学校がなくなった

この世の中にもはや学校は不要なのだとする「学校不要論」を唱える人が時折出てくる。確かに学校不要論は机上の議論としては説得力を持つこともあるのかもしれない。

しかし、現実的には、良くも悪くもこれだけ社会に根づいた学校というインフラが、急になくなることはあり得ないと思っていた人がほとんどだろう。だが、思いもよらぬ形で急になくなった。コロナによる一斉休校である。

学校というインフラのもろさ

あくまで休校であって学校がなくなったわけではないが、事前準備ができなかったこともあり、学校は今回のコロナ禍でほとんど機能停止したといってよい。文部科学省の調査によれば、「同時双方向型のオンライン指導」の実施率はわずか5%。教員の「在宅勤務(ICTを活用)」が23%というのも深刻である。「学校はやるべき業務が多すぎて、目の前のことをこなすのに精一杯だ。迫り来る危機に十分な備えができていない」という内田良氏の指摘のとおりである。

学校は社会に定着したインフラではあるが、かくももろいインフラであることが改めて明るみになった。

そこで考えたいのが、「学校の代わりになるものがあるのか?」という点である。学校という機関には限界や場合によって弊害もあるだろうが、現状では学習や子どもの居場所づくりにおいて大きな役割を担っている。教育や子どもの居場所づくりの場が学校でなければならない理由はないが、一方で学校がなくなるのであれば、教育・居場所づくりの役割を担うものが何かしら必要になる。その例として、公園、学童保育、子ども食堂の3つを取り上げる。

「公園」〜 古典的だが長所が多い

まぽ/写真AC

例えば公園。公園は昔からある古典的な施設で、普段は特にありがたみを感じない人も多いかもしれない。だが、改めて考えてみると、無料で、いつでも使えて、家の近くにあって(地域差はあるだろうが)、交通事故の心配も少ない…など多くの長所があり、それに加えて今回のコロナ禍の状況では、密室ではないという点も強みになった。

NHKはビックデータ分析で、首都圏で緊急事態宣言後に人が増加した公園が多いことを明らかにしている。ちなみに、公園は保育園の散歩先としても重宝されていたり、災害時の避難所になったりと、多面的な機能を持つ。

「学童保育」~必要性が高いならば相応の資源投入を

次に、主に仕事で昼間家にいない保護者が、平日放課後や休日に小学生の子どもを預ける学童保育について。学校は休校にするが学童保育は原則開所するという今回の政府の方針は、矛盾といえば矛盾だが、学童保育の必要性が高いことの表れともいえる。ただ、その矛盾した方針のせいで学校休校の分、学童保育に負担が偏るという問題が見られた。

また、結局は多くの自治体が保護者に学童保育の利用自粛を求めるという結果に終わった。ちなみに、コロナ禍の中でにわかに浮上した「9月入学」だが、苅谷剛彦氏の研究グループの試算によれば、いわゆる「ゼロ年生案」を採用した場合、約41万人の学童保育の待機児童が出てしまう。必要性が高いのであれば、それ相応の予算や人員を導入すべきである。

「子ども食堂」~危機の中で見せた対応力・柔軟性

koji1971/写真AC

最後に子ども食堂について。子ども食堂は学校や公園、学童保育とは違って歴史が浅く、2012年頃から始まった。また、ボランティアのスタッフが運営する、民間の草の根の運動である点も、学校などとは異なる。子どもたちを集めて一緒に食事をするという活動のため、コロナ流行後は感染リスクを避けるため9割近くの食堂が休止した。だが、半数近くの食堂は、食堂の開催の代わりに弁当・食材の配布・宅配を実施している。

もともと子ども食堂は月1回、週1回といった頻度の開催で運営する食堂が多く、給食ほどの効果はない。しかし、コロナ禍の中では、活動形態を変えながらも活動を継続するという対応力・柔軟性を見せた。

それぞれの特徴とそれぞれの限界

公園、学童保育、子ども食堂はそれぞれ学校とは違った特長があり、コロナ禍の中でもそれぞれの形で活躍し、学校休校という非常事態をカバーした部分もあるだろう。とはいっても、公園、学童保育、子ども食堂があれば学校は不要ということにはならない。公園は天候によっては使えなかったり、学童保育はキャパシティ不足だったり、子ども食堂は月1回・週1回程度の開催頻度だったりと、それぞれ限界も抱えている。

より良い日常へ

緊急事態宣言が解除され、学校が再開へと動き出している。今回の休校で学習が遅れたり、給食がないことによって栄養状態が悪くなったり、居場所がなくなったりした子どもも多いことだろう。それを考えれば、学校再開自体は非常に喜ばしいことだ。だが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」でよいのだろうか?世田谷区立桜丘中学校で校則をなくすという改革を貫いてきた西郷孝彦前校長の今回のコロナ休校についてのコメントが深い。

「学校に通えないという状況があって、初めて我々も子どもも、それから社会も、一体何のために学校があるのかって考えるチャンスが来たと思いますね」(NHK「ノーナレ:校長は反逆児」)

学校があまりにも当たり前のように存在しているため、気がつけば私たちはそこで思考停止になってしまっていたのではないだろうか。だから学校不要論という主張も、正当性や説得力以前に現実味がなかった。

だが、「学校がなくなる」ということは、もはや机上の想定ではなくなった。今回の全国一斉休校は極端であるにせよ、今後も感染症や災害で学校が機能停止になることはあり得る。そもそも、いろいろな事情で学校に行けない子ども、学校に行きたくない子どもがいる。

学校というものについて熟慮すると同時に、学校という既存のものにとらわれずに、子どもたちの学習や居場所づくりにとって、本当に何がよいのかを考えていくべきである。「新しい日常」は「より良い日常」でなければならない。

工藤 洸(くどうこう)
会社員として勤務する傍ら執筆活動。専門は政策過程研究と社会批評。興味・関心テーマは「子ども食堂」。

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