新渡戸稲造先生と私(上) --- 李 登輝

2020年10月09日 06:01

編集部より:この記事は、7月30日に逝去された故・李登輝氏の2014年1月の講演録です。台湾民主化の父と評され、また日台の礎を築いてこられた李氏による日本語での貴重な講演内容を、アゴラ執筆者きっての台湾通、高橋克己氏のご協力により、掲載させていただきます。(参考:李登輝閣下ご逝去、ささやかな筆者との接点の思い出

李登輝氏と高橋克己氏(右)

李 登輝

高雄日本人会の高橋克己会長、高雄日本人学校の高口和治校長、交流協会高雄事務所の中村隆幸所長、そして会場の皆様こんにちは。先ほどご紹介いただきました李登輝です。

もともと、12月に皆さんの前でお話しをする予定で、私も楽しみにしておりましたが、体調を崩してしまい、それが叶いませんでした。しかし、本日、かくもたくさんの皆さんにお集まりいただき、お話しできることを非常に光栄に感じております。

昨年の夏、高橋会長から講演の依頼をいただいた後、台湾南部に暮らす皆さんに、一体どのようなお話をすればよいものかと、幾日も頭を悩ませておりました。結果として、高橋会長のご依頼を踏まえ、本日は「新渡戸稲造先生と私」と題したお話しをすることにいたしました。

というのも、今日の台湾、特に高雄を中心とした南部の発展を語るうえで、糖業を抜きにして語ることは不可能であり、台湾糖業の礎を築いたのが新渡戸稲造先生であるからです。

さて、本題に入る前に、同じく日本時代の台湾に大きく貢献した後藤新平先生について少しお話ししたいと思います。

後藤新平(Wikipedia:編集部)

2007年5月、私は家族とともに日本を訪れ「奥の細道」を散策する機会を得ることが出来ました。

ただ、この訪日にはもう一つの目的がありました。この年、光栄にも藤原書店が創設した「後藤新平賞」の第一回受賞者として選ばれ、授賞式に出席することになったのです。授賞式の席上、私は「後藤新平と私」と題した記念講演を行い、「後藤は私の先生です」と述べました。

とはいえ、第四代・児玉源太郎総督のもとで民政長官として後藤先生が辣腕をふるっていた1900年代初頭に、私はまだ生まれておりません。実に後藤先生と私が生きている時代には百年の開きがあるのです。

1895年の下関条約で日本は清朝から台湾を割譲されましたが、初代総督の樺山資紀から三代目の乃木希典まで、台湾の開発は端緒についたばかりでした。内務省衛生局長時代に児玉源太郎の目に留まった後藤先生は、児玉総督に呼ばれるかたちで台湾に渡ったのです。

その後、民政長官として在任した九年あまりの間、後藤先生は指導者としての力量を遺憾なく発揮し、台湾は未開発社会から近代社会へと、「一世紀にも等しい」と言われるほどの開発と発展を遂げたのです。

そして、後藤先生が台湾発展のカギを握る人物の一人として台湾へ招聘したのが、同じく岩手県出身だった新渡戸稲造先生なのです。

新渡戸稲造(Wikipedia:編集部)

後藤先生の2年越しとも言われる要請に応えて新渡戸稲造先生が台湾へ渡ったのは、1901年2月、日本が台湾を領有して6年が経過していた頃でした。すでに前年、アメリカで『Bushido:The Soul of Japan』が英語で刊行され、セオドア・ルーズベルト米大統領の絶賛を受けたほか、やがて諸外国語に翻訳されて大反響を巻き起こしていましたが、日本語版が刊行されるのは数年後のことです。

新渡戸先生は後藤先生が招聘した10人あまりの優秀な人材の一人でした。後藤先生は台湾に着任するや、まず人事の刷新を手がけ、総督府の高等官以下、1080名を更迭して日本内地へと送り返しています。禄を食(は)むだけで仕事をしない役人たちの首を切り、代わりに新渡戸先生をはじめ、祝辰巳や中村是公、宮尾舜治ら少数精鋭の若手を起用し、台湾統治に投入したのです。

総督府技師として赴任した39歳の新渡戸先生は、5月に民政部殖産局長となりますが、この間、台湾全土を視察して歩いたことで、殖産興業の要は製糖業にあるのではないかと思い当たります。

また、パリで開かれた万国博覧会へ出席した帰途、ジャワ島に立ち寄り、糖業事情を調査し、台湾の発展に製糖業が大きく寄与するとの確信を得るのです。そして、この年9月には早くも「糖業改良意見書」を書き上げ、児玉総督や後藤民政長官の支持を得て、ここに台湾製糖業発展の基本方針が決定されることとなります。

「糖業改良意見書」の内容について簡単にお話ししましょう。意見書は「糖業に関する改良方法」「保護奨励政策」「糖業設備および仕組みに対する改良意見」という三つの柱から成り、その書き出しで新渡戸先生は「台湾糖業に改良を施すことで増加した産業額は、わが国の消費を充たすだけにとどまらず、海外市場でヨーロッパ産の砂糖と競争するだけの力を持つものと確信する。そのためには以下の点を建議する」と述べています。

「糖業に関する改良方法」では、栽培法や灌漑施設の改善、砂糖の原料となるサトウキビ栽培に適した土地の開墾から製糖技術の改良、品種改良といった7点が挙げられています。また、「保護奨励政策」の項では砂糖の輸入関税を上げること、販路の拡大政策など11項目が、「糖業設備および仕組みに対する改良意見」では臨時糖務局や試作場の設置など14項目が建議されています。

実は、この頃の台湾における糖業は徐々に衰退しつつありました。ただ、新渡戸先生はその衰退原因が労働力の欠如や課税という人為的なものに起因するものと分析し、政策いかんによっては、台湾の糖業を発展させることは可能であると確信したからこその意見書でありました。

新渡戸先生の意見書を受け、児玉総督は早速、翌年6月に台湾臨時糖務局を設置し、新渡戸先生を局長に任命します。同時に台湾総督府は意見書を元にして起草した「糖業奨励規則を発布し、これが後の台湾糖業発展の指針となっていくのです。

この「糖業奨励規則」の特徴は、サトウキビ栽培や製糖に従事する者に様々な面で補助を与えていることにあります。 清朝時代から、米や樟脳と並んで台湾を支えてきた重要産業の一つである糖業を、さらに発展させようという総督府の期待のほどが伺えます。

話が前後しますが、後藤新平先生が新渡戸先生に台湾行きを要請した頃、彼はアメリカ滞在中でした。しかも、決して体調は芳しいものではなかったのです。しかし、「義を見てせざるは勇なきなり」という武士道の精神をそのまま発揮し、台湾に赴任した後は命がけで「台湾糖業の発展」という大事業に全神経を傾けました。なぜなら、国家がそれを必要としていたからです。これぞまさに「武士道」の精神と言わずして何でありましょうか。新渡戸稲造先生は実践躬行の人でもあったと言えるでしょう。

新渡戸先生は、自身の建議によって設置された臨時糖務局の局長に就任し、製糖事業の指揮をとり始めます。

彼の構想は、それまでの小規模かつ旧来型の耕作方法を新しい方法に転換させることを奨励する一方で、機械化された大規模な製糖工場を建設することで糖業の近代化を成そうというものでした。サトウキビ農家には補助金を支給し、品種改良や灌漑施設の整備など、耕作意欲を刺激する政策を進めました。また、従来の手作業を主とした製糖作業を機械化したことで、台湾の製糖業を、いわば農業と工業の両面から発展させたと言えるでしょう。

1903年、新渡戸先生は兼任で京都帝国大学法科大学教授となり、台湾での経験を踏まえた植民政策講座を受け持ちます。そして翌年には正式に台湾総督府を離職したため、彼が台湾において心血を注いだのは3年あまりに過ぎません。

とはいえ、新渡戸先生の意見書によって土台が築かれた製糖業は、1902年には生産高50万担あまりだったのが、1905年には130万担近くに激増しています。これは、大規模な製糖工場が続々と建設された結果であり、製糖業は台湾の産業において重要な位置を占めるようになっていくのです。

1940年代には、生産量は国内消費量を上回り、完全な過剰生産になるほどに発展したことで、台湾は砂糖の産地として世界にその名を轟(とどろ)かせます。おかげで台湾、特に南部は製糖業によって潤い、急速な発展を遂げた地域も少なくありません。これはまさに新渡戸稲造先生が私心を捨て、公のために尽くしたおかげでありましょう。

(下)に続きます。

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