光秀と信長の真実① 浅井・朝倉連合軍との戦い

2020年11月23日 06:00

昨日、『麒麟がくる』にあわせて私がかつて書いた「浅井三姉妹の戦国日記 」(文春文庫)の内容を編集してして、叡山焼き討ち該当部分を紹介したところ好評だったので、その少し前の信長上洛から本能寺の変までを3、4回に分けて連載してみようと思う。本日は、浅井・朝倉との姉川の戦いまで。

織田信長像(愛知・長興寺所蔵、Wikipedia)

「室町幕府」は同志社大学西側の「花の御所」にあった時期が長いので名付けられた名前です。しかし、義昭さまはとりあえず、京都六条堀川の本圀寺を仮御所にされました。

しかし、信長さまが京都を離れると、河内に逃げていた三好三人衆らが本圀寺を襲いました。上洛の翌年のことでございました。これをみて信長さまはさっそく岐阜から京都に兵を率いてかけつけられ、反乱軍を鎮圧いたしました。

そして、二条城を築いて御所をそちらに移しました。このときの二条城はいまマンガ漫画ミュージアムがある当たりにあったので、徳川の二条城とは別です。

このときに朝廷は、信長さまが京都に留まることを願って、副将軍はどうかと申し出たのですが、これもまた信長さまは断ってしまいます。ただ、信長さまは義昭さまが信賞必罰などを勝手にされないようにおっしゃり、信長さまの添え状をつけろと要求されたのでございます。また、近畿周辺の諸大名に義昭さまの名で上洛を要求されたのです。

これに能登の畠山氏や飛騨の姉小路氏などまで応じたのですが、越前の朝倉氏は無視してしまいました。というのは、同じ斯波氏の家臣だったのですが、信長さまが斯波氏の立場を次ぐ立場になると、朝倉氏は信長さまの家臣というようなことになりかねないという事情もあったのでしょう。 これは、先に守護としての立場を認められた朝倉氏にとっては耐え難いことでございました。

そこで、信長さまは徳川家康さまとともにまずは、情勢が安定しない若狭へ遠征するといって京都を出発されたのですが、途中から朝倉攻めを宣言されました。

驚いたのは浅井家中でございます。もちろん、織田と朝倉の因縁も、このところ雲行きが怪しいことも知ってはおりましたが、なんとか、両者の対決にならないように仲介しようとも思っていたのに、なんの相談もなく、いきなり、信長さまが攻めかけたのです。

信長さまにしてみれば、相談すれば反対されるだろうと思ったからこうしたのでしょう。また、協力しなくとも黙って見ていてくれればよいと踏んだのでしょうが、浅井の方からすれば、ますます、馬鹿にされたような気分でございました。

それに、義昭さまの上洛のときから、浅井に対して、特段、協力への見返りもないという気分もありました。信長さまは浅井の湖北支配を安定させてやったので十分と思っていたのでしょう。

浅井長政像(高野山持明院蔵/Wikipedia)

小谷城内では祖父の久政を中心に朝倉につくべしという声がわき上がりました。若い長政に対して、美しいお市を溺愛するあまり、朝倉への恩義を忘れてもいいのか、織田には見返りもなく尊重もされずいいように便利に使われているだけではないか。ひごろから織田方は浅井の家臣たちを馬鹿にしたような態度が我慢ならないといった不満が充満していたのです。

長政にすれば辛い決断でしたが、燃え上がった家中の不満をお市への愛情だけで押さえ込むのは、はなから無理な相談でした。浅井は織田軍を牽制するために出兵しました。といっても、信長さまを討とうとまでしたのかは、よく分かりません。とりあえずは、朝倉攻めを中止させるのが目的だったはずです。あるいは、信長軍を攻撃したのは、現場の独走だったのかも知れません。

このとき、お市が浅井に留まった理由はいろいろあるでしょうが、浅井としては信長さまと完全に絶縁するつもりだったのでなかったのだと思います。また、このときに、お市が、空け口のない袋に入った豆を送って信長さまに危険を知らせたなどという話もありますが、信長さまは浅井の攻撃があったときに驚いて呆然としたと記録されていますから、事実ではありません。

信長さまは敦賀の金ヶ崎城を攻撃していましたが、すぐに、京都へ逃げ帰ることを決意しました。しんがりは木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)さまが引き受けました。

信長さま自身は琵琶湖に面した北国街道を避けて、比良山の裏側の安曇川上流から花折(文禄地震を起こした花折断層や鯖寿司で有名です)や途中(固有名詞です!途中行きというバスがあるので笑い話のたねによくなります)を通って八瀬大原に抜ける裏街道を抜けることにしました。

この段取りを佐々木一族の朽木氏とつけたのは、知恵者の松永久秀さまです。久秀さまは足利義輝さまを殺した主犯者ですが、信長さまの上洛にはいち早く味方し、信長もその才覚を気に入って義昭さまの反対を押し切って重用されていたのですが、それが役に立ったのです。

こうして、信長さまは虎口を脱して、少人数ですが守備隊がいる京都に逃げ帰りました。ここで忘れてはならないのは、このときも含めて義昭さまは室町幕府が滅びる直前まで、対立はしつつも、つねに信長方におられたということで、これで、朝倉だけでなく浅井も、義昭さまへの謀反人ということになったということです。

京都に帰った信長さまは、すぐさま、浅井を討つことを決し、小谷城に向かって兵を進めます。岐阜と京都を結ぶ道としては、伊勢回りも可能ですが、やはり遠回りです。信長さまは、なんとしても中山道を押さえようとしたのです。

ja:User:Jmho/Wikipedia

織田方には徳川家康さまも参加いたしましたが、朝倉義景さまは一族の朝倉景健さまを浅井方に派遣するに留めました。こののちも、朝倉が味方してくれるが、つねに中途半端という態度が、浅井にしてみますと信長との和解はできないが、かといって勝利もおさめられない、という状況に陥らせる原因になります。

この「姉川の戦い」のとき織田・徳川軍は2万8千、浅井・朝倉軍は1万8千ほどだったといいます。戦いは磯野員昌さまらの活躍で織田軍は13段のうち11段も切り崩され、木下藤吉郎さまなども危ないところだったといいます。

しかし、酒井忠次さまや榊原康政さまらの徳川軍が奮闘して盛り返し、最終的には織田・徳川軍の勝利に終わります。ただし、この戦いを江戸時代の史書が、信長さまの大勝利だったというのは、(おそらく徳川軍の活躍を強調するために)少々、誇張されたものです。たしかに、長政さまの弟の政之さまなどそれなりの犠牲者は出ていますが、壊滅という程ではありませんし、その後の展開はむしろ浅井方に有利なものでした。

浅井/三姉妹の戦国日記 (文春文庫)
八幡衣代, 八幡和郎
文藝春秋
2010-10-08
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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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