ある知り合いが再就職で航空会社のCAを目指していたのですが、夢かなわず、だったようです。そのハードルに一般教養試験があったようだと伺っています。就職を目指す方からは会社の入社試験でもよく一般教養が苦手だから大丈夫かな、という声を耳にします。
大学教育では一般教養が1-2年に、専門課程が3-4年に集中しているかと思いますが、どうも一般教養は不得手で自分の専門分野一本勝負という方も多いように感じます。
日本のタクシーの運転手さん。様々な背景があるので一括りでは話せませんが、初老の運転手さんが「自分はハンドルぐらいしか握れませんので」とおっしゃる方を時々耳にするのは謙遜なのか、事実なのか、といえば両方なのかもしれません。
私が20歳ぐらいの頃、パリのレストランやカフェに入った時、サーバーさんに高齢のベテランさんが多くいらっしゃったので驚愕の思いでした。彼らはこの道何十年と続けており、プロとしての強い自意識がある一方で職業転換できない弱点があります。今から40年も前の話ですから社会がこれほど変質化し、今の職業が無くなるかもしれないと脅かされることは想像しずらかったこともあるでしょう。
一方、カナダのある給排水業者の40代のオーナー氏はその昔はバーテンダーだったそうです。一大決心して勉強し、まるで違う世界で活躍できるようになりました。なぜ、職業転換したかといえばその仕事を一生やるかと思うと自分にはそれは無理だと思ったから、と。職業転換するにも広範な知識と考える力がその人の人生の転機を後押しすると考えられなくもありません。
日本の大学進学率は56パーセントに対して韓国は70%、アメリカは88%ともされます。一方、大学卒業率だと日本は56%に対して韓国は51%、アメリカは50%となっています。(ただし、このデータは調査機関により定義が一定ではなく、データの信ぴょう性は定かではないため傾向としてのご参考までです。)これを読み取る限り、日本は大学に入れば卒業できるが、諸外国は振り落としがあることが読み取れます。
日本の大学卒は1-2割は怪しいレベルの卒業なのでしょう。日本の大学生が勉強で厳しい大学生活だったという話は聞いたことがありません。ある程度の年齢の方の中には「大学の授業はほとんど出なかった」と豪語する方もいますが、それが日本の実情だと思うと世界基準とは大きくかけ離れてしまいます。
アメリカでバイデン大統領が学生ローンの一部免除の政策について連邦最高裁が無効と判断しました。理由は返済済みの人や大学に進学しない人との不公平感です。アメリカで大学に行くのは将来、高所得を得やすい条件だからですが、そもそも大学を卒業するには極めて厳しいハードルがあり、大学によっては半分ぐらいしか卒業できません。それでも社会問題になるほどの学生ローンを抱えながら必死で大学卒を目指すアメリカの学生(含む留学生)と日本の学生には違いを感じざるを得ないのです。
生成AIやIT化が進む中で人はより専門職に就く傾向が出てくるでしょう。しかし、何らかの形でAIと業務をシェアする職業は最終的には9割以上でそうなると予想しています。一方、マネージメントと称する経営やAIを支配する業種や職種は今後、極めて限られる時代が来ます。「それなら自分で起業する」と仰る方もいると思いますが、これからの起業は極めて難関だとみています。
理由は資本の原理がより浸透し、チェーン店などに個人経営が太刀打ちできなくなるからです。起業するにしても莫大な資金と絶対的なノウハウと明白な成長戦略をもって大手と真っ向勝負になるからでその勝率はかつて以上に低くなるとみています。
お題の一般教養と専門能力で考えると一般教養はあるに越したことはないのですが世の中がそれを求めない時代になりつつあるのだろうと想像しています。日本では寺小屋教育にみられるように一般庶民まで様々な教養を身に着けていて世界で圧倒的に優秀な国民とされたのですが、それは鎖国している江戸時代、かつ不便な時代だったからこそ可能だった点は否定できないと思うのです。
それは知識欲という人間が本来持つ欲望を満たしたかったからなのですが、今は食傷気味なほど無料のホットな情報が溢れかえっています。これでは書物を読み解く必要性は薄れてしまいます。
マネージメントを目指すなら巷にあふれる無料情報だけではなく、広く深くバランス感覚ある知識が要求されますが、それを備える人は今後、どんどん減っていくでしょう。となれば学生時代、あるいは社会人になってから独力で深い一般教養を身に着ける努力をしないと雲の上には行けない時代になると思います。
私が31年も海外に出ていて日本を見て思うのは「好きこそものの上手なれ」ですが、応用が効かず、海外にせっかくのビジネスネタをすっかり奪われることが続いている点です。日本の基礎研究は圧倒的に優れていますが、それを応用するチカラがない点は見て見ぬふりにも感じます。
そう考えると目先のリスキリングというより、人間の厚みを磨く一般教養を身に着ける意識をもう一度、考えた方がよいのでしょうね。企業が一般教養の試験をするのはそれなりに意味があるということなのです。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年7月6日の記事より転載させていただきました。