広島県と島根県の県境に位置する僕の母校、今は廃校となってしまった小学校は、在籍当時、全校生徒が最も多い年度でさえ26人という規模であった。その為複式学級が採用されていた。
複式学級とは、「1・2年」「3・4年」「5・6年」と、二学年を1クラスと置くものだ。
小規模の学校では、意見の多様化が生まれないというデメリットもあるかもしれないが、僕はあれはなかなか良いシステムだったと感じている。
1.生徒一人当たりに費やせる時間
これは昨今議論されている事であるが、1クラス40人はどう考えても多過ぎる。40人全てに行き届いた教育を提供するのは、ほぼ不可能だろう。
また分からない事は質問するという癖が付き、更には先生側にも時間的余裕が出来る為、『どうして分からないの?』と生徒自身に考えさせる時間を与える事が出来る。
これに依り齎されるものは、計り知れない。
?)分からない事は恥ずかしがらず質問するという、癖が付く
?)どうして分からないか自分で考えなければならない為、生徒同士の議論の場が起こる
事実中学に進んだ際、僕の小学校時代の同級生は平均して”頭が良かった”。また中学からクラスの人数は増えたが、生徒同士に依る議論の場の形成に慣れていた為、彼等がリーダーとなり、クラス全体に行き届いた教育を提供する手助けになった事は、恐らく事実であろう。
この様に、単に先生に質問出来る機会が増えるだけでなく、現在主流の「自身で考える力」の形成にも影響を及ぼす事となる。
2.余った時間で隣の黒板を見れる
黒板の一方には、次学年に学習する課題の解説がある。これに依り3年生にして4年生の学習を行う事が出来る。また4年生は3年時の復習を行う事も、勿論可能だ。
複式という事で「2.」を挟んだが、こちらは先生が一人当たりに避ける時間が増える事と矛盾する為、中学・高校と教育が高度化するに従って、実行が難しくなる。
重要なのは勿論「1.」で、その時点での深い学習と共に、今後の学習方法の形成も同時に培われるのである。
デメリットは意見の多様化がなくなるという事だが、現在の教育現場ではそもそも生徒が『ハイッ』と手を挙げて意見する事自体少ない。先ずは意見を述べるという習慣を付ける事が大切である。
さて、前置きはこの辺りにして、これがどう電子教科書と結び付くかについて述べたい。
中学のとき僕が感じたのは、「そもそも習っている事が違う」という事だ。
人間知らないものは答えられない。答えを憶えるだけの教育は僕も嫌いだが、現在の”試験”というものがある限り、矢張り答えを導き出す手順に触れておく事は重要である。
通常僕等の地域では高校から受験が始まる為、受験勉強に触れるのは中学3年からである。僕も例に漏れず、難関高校の模擬試験を購入し取り組んだ。しかしその中の幾つかの問題に、当時僕が初めて目にしたものがあり、ある問題では検証を重ねた末解答に辿り着いたが、既に1時間が経過していた。例え答えを導き出せても、時間制限の為に彼は落第するのである。
お分かりの様に、電子教科書、またそのプラットフォームが普及すれば、この「習った時期の違い」という問題を軽減出来る。重要なのはそれぞれの能力に合った学校を選択出来る事だと、筆者は思う。その時点の能力が足りなかっただけで、3年間も抑え続けられるのは如何なものか?
孫氏の提唱する光の道は、この電子教育プラットフォームとすこぶる相性が良い。僕は彼が「第二の孫正義」を立てようとしている事からも、彼の狙いは、田舎の考える力を持った子供たちに向けられているのでは、と感じる。
池田氏が仰る様に、田舎に存在しないサービスを受けたいなら都会に来れば良いという考えは、実に正論だ。僕の場合も『早く参考書を買っとけ』で済む問題である。
だが我々は、そろそろその投資にどれ程のリターンが返ってくるかを検証しなければならないのではないか?
光の道は平等ではない。
僕もそう感じるが、その平等ではないという対価を払って返ってくる 利益-優秀な人材 は、今日本が最も欲しているものなのだから。
斎藤隆博( @s_tima ) ModelFactory代表
コメント
難関校で難易度が高い問題が出ることと、授業の進度が違う問題は全然別問題では?
習ってることが違うのは確かでしょうが、それは「教科書に載っていない問題がでた」ことが理由でしょう?
教科書の供給が間に合ってなくて進度が不公平とかならともかく、現実には新学期に教科書は全国一律でそろってるはずです。このエントリーからは電子化するメリットが全然見えてきません。電子化と公平との関係もよくわからないのですが。
>だが我々は、そろそろその投資にどれ程のリターンが返ってくるかを検証しなければならないのではないか?
>光の道は平等ではない。
>僕もそう感じるが、その平等ではないという対価を払って返ってくる 利益-優秀な人材 は、今日本が最も欲しているものなのだから。
光の道設置に必要な費用で都会の教員数を増やした場合に比べて投資効率が優れているとするという根拠は何でしょうか?
1.
・教えなくても理解出来る児童は電子教科書に任せ、どんどん先に進ませる
・中程度の理解度の児童は、分かる子に教わる。若しくは上級生に教わる
・教員は底上げに集中する
2.
反復学習(の指導)等の単純作業を電子教科書に任せる
この2点が本筋でしょう。それ以上の夢想は、インフラ整備の前にソフトを完成させるのが先です。
どうも「ゆとり教育」と同じ匂い、というより臭いがします。高邁な理想論が先行して金ばかり掛かって教育業者の食いものにされて形骸化して廃止、となるのが目に見えるようです。
それと、義務教育以上のことは必要なんでしょうか?もちろん受験業者や生涯学習屋が(金を払って)インフラを利用するのは構わないでしょうが・・・
教育と「光の道」との関連がいまいち判りません。
教育に関するお話には共感する点がありますが、そうだとしても学校に光ファイバーを繋げばいいだけで、個々の家にまで光ファイバーを敷設する必要はありません。そこは論理が飛躍しているのではないでしょうか?
あと他学年の学習を予習したり復習したりするにしても「光の道」は必要ありません。
iPadのような電子書籍を全ての生徒に買い与え、そこに小学1年生から高校までの全ての教科書の電子データを入れればいいだけです。64GBあれば現在一般的に学校で使用されている全ての教科書の電子データを入れても余裕で入ります。理科などに関しては簡単な動画データを入れることも可能でしょう。
「光の道」敷設に回す予算があるのであれば、このようなシステムの構築に回した方がよほど教育効果は高いのではないかと思います。
最初からお金を使うことありきになってはならないと思います。
いくら教育にお金をかけても、企業側の要求と一致しなければ、ただの無駄になります。
教育改革は、企業側の文化、制度、慣習を改革することと同時に論じられなければならないでしょう。
また、現在の教育制度ありきではなく、飛び級の普及や全ての学校の民営化、学習塾との一体化など、根本的に変えなければならない部分も多くあります。
私企業の宣伝に迎合した、小手先の改革でお茶を濁している場合ではありません。
(筆者)
まずはご意見頂きありがとうございます。
皆さまへの回答にならないかもしれませんが記載致します。
私が今後に観る教育は、教科書の違いで学習速度に違いが生まれないものです。知ってる内容を説明されて暇を持て余したというご経験はございませんか?
また入学後メキメキと実力を伸ばすタイプの子は、入学時の学力でその後の学習の進捗に支障を来します。偏差値の低い学校でも”秀才”がいるのはその為と思います。
「教科書は学習の速度に依って自身で選べる時代になるのでは?」というのがこのエントリの背景にあります。
オンライン上で様々な学習が可能になりました。しかしまだ足りない。学校に集まって電子端末で各々が別々の学習をするという時代も来るのではないでしょうか?
それだと学校に集まる意味はないと思われるかもしれませんが、それは単に私がそこを好きだからです。小さな政府も学校も、私は箱となると推察致します。
冒頭述べましたが回答になっていない可能性がある為、再度ご意見頂ければ有難く思います。
コメントしている人が疑問に思っている点はそこではないと思います。
教育制度をどのようなものにするかという問題には様々な解があり得ると思います。ですので単に「教科書は学習の速度に依って自身で選べる時代」になるのみならず、「教育方針自体を自分自身で選べる時代」になることが望ましいでしょう。
ただ、問題はそこではなく、後半の取って付けたように「光の道」に触れている点にあります。
学校制度を解体し、家庭で教育を受けられるようにすべきというのであれば、各家庭にまで光ファイバーを敷設する「光の道」構想との相性もいいでしょう。しかし、そうではなく「学校という場が重要」であると述べられています。そのため皆次のように疑問に思うのです。「学校という場が重要なら学校に光ファイバーを繋げればいいだけじゃないの?学校重視の立場は光の道構想とは相性が悪いのではないか?」と。
筆者さま、補足ありがとうございます。
私はどうも、大前提のところで大きな誤解があるのではと感じました。
まず、教科書というものは検定教科書である限り、その学年で行う内容に差はないことになっています。それに今の教科書でも多くの場合1学年分記載があるので、予習をするのは自由です。
指摘のような「できる子」の問題については、習熟度別クラスなどで対処されるところですが、障壁は人件費ですね。
さらに学年をまたいでということになれば、年度中途の飛び級など、従来とは全く異なる単位認定が必要になります。
逆にこれらの障壁はなくて、電子教科書で好きなところを自習すればいいよという教育システムを想定されているなら・・・
申し訳ないが自分でどんどん自習する子のことであれば、電子教科書など持ち出さずとも、教材は従前より無数に存在しています。
電子教科書の導入前提がそもそも間違っていると思います。アメリカでは、教科書は非常に厚く自宅に持ち帰りません。ですので家で学習する為には、家庭で教科書を購入するか参考書を購入する、またはネットで調べる事になります。ですから電子化されれば、自宅でも教科書が見れるようになり、余計な出費が減るメリットがあります。日本では薄っぺらな教科書で、自宅に皆持ち帰るので電子化する利点など、ほとんどないと思いますが。
また、電子黒板についても、導入されたは良い物の教師がその能力を十分に引き出す事ができず、旧態然とした授業しか行えず、教員の健康維持以外になにか利点があるのかと言う状態です。学習進度に関しては、一学年に少なくとも3クラス作れる程度の規模の学校を設置して、各教科について3段階の学習進度別にすれば解決します。授業中に暇ができてしまう事がそもそも問題です。
(筆者)
>bobbob1978さま
皆さまの疑問を分かり易くして頂きありがとうございます。
私が『学校が大事』と申し上げたのは、一般的な教育の面ではなく、人と触れ合うコミュニティとしての役割からです。
では学校以外が主な対象となる光の道がどうして学習に必要と考えるか。
例えば道端で昆虫を見付けたとします。それをiPhoneで撮影すると昆虫図鑑がディスプレイに表示される。そんな世界カメラさんの様なアプリがあっても良いと思うのです。私が調べた限りでこの様なアプリはまだ登場しておりませんでした。
iPadには残念ながらカメラがありませんが、写真データをクラウドに保存し、帰ってじっくり学ぶ事も出来るでしょう。
これは当然、「電波の道」と相性が良いです。実は私も、どちらかと言えば電波の道派に属します。しかし電波の道は、孫氏が仰る様にトラフィックの問題が付いて周ります。
池田氏が、一局100万円の基地局なら2.5超円で10万局以上建設出来ると指摘しておられますが、残念ながらこの問題に数年を費やしたソフトバンク程のきめ細かな試算はまだ目にしておりません。
私の懸念は、通信インフラ改善が世間で声高に叫ばれ始めておりますが、その複雑性から、結局実行に至る頃には他国と決定的な差が生まれるのでは?という事です。ならばある程度の”無駄”というリスクを背負ってでもリターンは幾らになるのかという検証をすべきではないでしょうか。
(筆者)
>bobbob1978さま
申し添え忘れましたが、『どちらが取って付けたか?』と問われれば、寧ろ前半部分となります。私が今回最も主張したかったのは、最後の一文に他なりません。
>akiteru2716さま
『私は現在の教育システムに疎いので・・・』では済みませんね。私もこの部分は学ぶ事が多いです。
教育システムを変えるというのは困難な道と思いますが、やらなければならない事が分かっている際の躊躇は、誤解を恐れず言えば一種の罪と思います。
>akiteru2716さま
>usa67さま
教材の部分に関しては、では何故巷に本が溢れ返ってるのに、「電子書籍」が話題になるのでしょうか?
それは思い付いた”瞬間”に手に入るからと感じます。
書籍の検索についてもそれほど重要とは捉えておらず、契約書類等には非常に重宝すると思いますが、実際複数の本を何度も読み返す方は、一般的には稀でしょう。
>usa67さま
3クラスと言わず一対一の広範囲化が可能になれば、教育の未来は更に明るいですね(^^)