捨てる勇気の時代と心性 - 岸田 航

2011年04月12日 18:28

渡辺京二の名著「逝きし世の面影」には,幕末の日本に滞在したイギリスの外交官が伝聞したというエピソードが紹介されている。一人の哀れな男が千鳥足で寺院のそばの溝に落ちたが,少し離れたところで,子犬も水の中でもがいていた。下級の僧侶が通りかかり,てっきり溝の中の男を助けると思いきや,その僧侶は溝から犬を引っ張り出し,溝に落ちた老人には目もくれなかったという。

何の話かと言えば,池田信夫教授の「捨てる勇気」のことである。震災から3週間を経て,海上を漂流する屋根の上から犬が奇跡的に救出されたとの報道は久々に心温まるニュースだった。これに池田教授が「行方不明がまだ1万人以上いるのに、犬の心配してる場合じゃないでしょ」とつぶやくと,「人命も犬の命も同じだ」との反撥が集中したという。


冒頭に挙げたエピソードは,現代日本人のこの感性が,少なくとも近世以前から連続性を有していることを示唆している。そして,このような身近な生命に対する共感性は,現代日本における「助け合い」や「思いやり」といった心性と,おそらく不可分のものとして結び付いているのではないかと思う。精神科医の中井久夫教授も,「日本人における人間の条件は『相手の身になれること』ではなかろうか」(「関与と観察」98頁,みすず書房・2005年)と指摘している。

おそらく,日本人のこの限られた状況下における共感性という心性は,長年における農村社会を基盤とした我が国の社会条件の中で育まれてきたものなのだろう。農耕作業を共同する村落共同体の中では,固定的な構成員の間でお互いのニーズを察し合い,進んで協力し合うことが最善の戦略となる。「空気を読む」「相手の身になって考える」ことを要求し,和を以て貴しとなす気風は,このような環境に適合した心性といえる。青木昌彦教授は「現実世界では,戦略のマッチングをより低い計算・取引費用で実現するために,互いに補完性を持った戦略を「ルール」として強制するメカニズムが発展してこよう。そうしたルールは,暗黙のうちに守られる慣習や道徳的規制という形態を取ることもあれば,あるいは法律的な強制力を持った明示的な制度という形態を取ることもあろう」(「被告制度分析序説経済システムの進化と多元性」39ないし40頁,講談社学術文庫・2008年)とされている。

このような,お互いへの思いやりを要求する心性が,この国の文明における「人間の生存をできうる限り気持のよいものにしようという合意」を成し遂げてきたことは明らかだ。それは今次の震災においても,我慢強い日本人として世界の賞賛を浴びている。今次の震災後,関西電力の友人から頼まれたと称して,節電に協力するようにとのチェーンメールが私にも送られてきた。原悟克氏の先日の記事を紹介して丁寧にお断りしたが,このような同調圧力が生まれるのも,お互いに善意と協力を期待できるという暗黙の合意がこの共同体にあるからであろう。

他方で,自分の視野の範囲内に限られた「相手」への思いやりと共感に重点を置く余り,限られた資源を使うべき対象を絞り込めず「すべてを守ろうとして,すべてを失ってきた」ことを私は認める。批判の強い数々の規制によって守られる人々の福利に目を奪われる余り,そのような規制を恐れて控えられた機会の提供についぞあずかることのできなかった声なき人々への共感を持つには,あるいは日本人の心性は余りに単純で,想像力を欠くのかも知れない。逆に,目前の人々の苦しみに対し,我々は余りに思い入れと共感を持ちすぎるのかも知れない。

いずれにせよ,世界的なシステム間の競争と平準化の中で,もはや古き良き日本人の心性自体が変化を迫られている気がしてならない。
人間,動物を問わず「経験から学ぶこと」は,まず第一義的には推論の過程というより,成功に結び付いたために一般化した実践を守り,広げ,伝え,発展させる過程である-その理由は,実践が行為する個人にはっきりした利益を与えたからではなく,それらが自己の属する集団の生き残る機会を広げたからである」(『法と立法と自由 Ⅰ』「ハイエク全集8」18頁,春秋社・1987年)とハイエクが述べているように,それは個人と社会が生き残る過程で,抗いようもなく変えられてしまうものなのである。

結局,世界的にはアングロ・サクソン型ないしこれを基礎にしたシステムが主流となり,日本人もこれに適合せざるを得なくなる公算が大きい。(適合できないという向きもあるが,むしろ好むと好まざるとにかかわらず,あるいはそれがどの程度の成功を収めるかにかかわらず遅かれ速かれ無理矢理にでも適合を余儀なくされるのではあるまいか。)

あるいは,ゲール語を忘れていったアイルランド人のように,未来の日本人は英語を話し,もはや日本語を母国語とは感じられなくなってゆくのかも知れない。
そのとき,その新しい日本人は,震災の時に先祖は犬の救援にかまけて,行方不明者の捜索に割くべき貴重な資源を浪費したと冷笑するのかも知れない。文明開化の日本人が,豊かな以前の文明について「いや,何もかもすっかり野蛮なものでした!」(渡辺前掲517頁)と全否定したように。

そのとき,日本人は死ぬのだろう。塩野七海は,作中人物に語らせている。ローマが滅びたのは,その前にローマ人が死に絶えたからだ,と。中世イタリア人とローマ人が違うように,新しい文明に適合して異なる心性を持つに至った子孫は,もはや我々日本人とは異なる民族というべきであろう。この「思いやり」や「相手の身になって考える」という美しい伝統が,より想像力に富んだ視野の広いバランスあるものとして生き残っていってくれることを強く望むが,それは余りに希望的に過ぎるのかもしれない。あるいは,進化と適合の圧力は,この美しい伝統をも容赦なく押し流して,敗者への共感を割り切り生存を確保するたくましい伝統が取って代わるのかも知れない。

誤解しないで頂きたいのは,私は,日本人はこのまま変わるべきではないといいたいわけではない。好むと好まざるとにかかわらず,日本人は変わらなければ生きて行けないだろうし,実際にその意識は変容してゆくだろう。「誰一人見捨てるべきではなく,皆平等に幸福であるべきだ」という今日の道徳観から,それから変容する未来の道徳観を拒むことは無意味である。それは,道徳的直観から,それに逆らう経済学的法則を拒んでも,その現実に抗い得るものではないとの同じである。

ただ,「死にゆく」日本人の一人として,三週間の漂流を耐えた小さな命を見捨てられなかったその心の温もりに共感し,打ちひしがれた被災地の人たちが少しでもこの温もりに励まされてくれればよいと素直に思う。それが直ちに誰かを見殺しにするというものでないのであれば。

(岸田 航/法律家)

 

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