渡辺京二の名著「逝きし世の面影」には,幕末の日本に滞在したイギリスの外交官が伝聞したというエピソードが紹介されている。一人の哀れな男が千鳥足で寺院のそばの溝に落ちたが,少し離れたところで,子犬も水の中でもがいていた。下級の僧侶が通りかかり,てっきり溝の中の男を助けると思いきや,その僧侶は溝から犬を引っ張り出し,溝に落ちた老人には目もくれなかったという。
何の話かと言えば,池田信夫教授の「捨てる勇気」のことである。震災から3週間を経て,海上を漂流する屋根の上から犬が奇跡的に救出されたとの報道は久々に心温まるニュースだった。これに池田教授が「行方不明がまだ1万人以上いるのに、犬の心配してる場合じゃないでしょ」とつぶやくと,「人命も犬の命も同じだ」との反撥が集中したという。
冒頭に挙げたエピソードは,現代日本人のこの感性が,少なくとも近世以前から連続性を有していることを示唆している。そして,このような身近な生命に対する共感性は,現代日本における「助け合い」や「思いやり」といった心性と,おそらく不可分のものとして結び付いているのではないかと思う。精神科医の中井久夫教授も,「日本人における人間の条件は『相手の身になれること』ではなかろうか」(「関与と観察」98頁,みすず書房・2005年)と指摘している。
おそらく,日本人のこの限られた状況下における共感性という心性は,長年における農村社会を基盤とした我が国の社会条件の中で育まれてきたものなのだろう。農耕作業を共同する村落共同体の中では,固定的な構成員の間でお互いのニーズを察し合い,進んで協力し合うことが最善の戦略となる。「空気を読む」「相手の身になって考える」ことを要求し,和を以て貴しとなす気風は,このような環境に適合した心性といえる。青木昌彦教授は「現実世界では,戦略のマッチングをより低い計算・取引費用で実現するために,互いに補完性を持った戦略を「ルール」として強制するメカニズムが発展してこよう。そうしたルールは,暗黙のうちに守られる慣習や道徳的規制という形態を取ることもあれば,あるいは法律的な強制力を持った明示的な制度という形態を取ることもあろう」(「被告制度分析序説経済システムの進化と多元性」39ないし40頁,講談社学術文庫・2008年)とされている。
このような,お互いへの思いやりを要求する心性が,この国の文明における「人間の生存をできうる限り気持のよいものにしようという合意」を成し遂げてきたことは明らかだ。それは今次の震災においても,我慢強い日本人として世界の賞賛を浴びている。今次の震災後,関西電力の友人から頼まれたと称して,節電に協力するようにとのチェーンメールが私にも送られてきた。原悟克氏の先日の記事を紹介して丁寧にお断りしたが,このような同調圧力が生まれるのも,お互いに善意と協力を期待できるという暗黙の合意がこの共同体にあるからであろう。
他方で,自分の視野の範囲内に限られた「相手」への思いやりと共感に重点を置く余り,限られた資源を使うべき対象を絞り込めず「すべてを守ろうとして,すべてを失ってきた」ことを私は認める。批判の強い数々の規制によって守られる人々の福利に目を奪われる余り,そのような規制を恐れて控えられた機会の提供についぞあずかることのできなかった声なき人々への共感を持つには,あるいは日本人の心性は余りに単純で,想像力を欠くのかも知れない。逆に,目前の人々の苦しみに対し,我々は余りに思い入れと共感を持ちすぎるのかも知れない。
いずれにせよ,世界的なシステム間の競争と平準化の中で,もはや古き良き日本人の心性自体が変化を迫られている気がしてならない。
人間,動物を問わず「経験から学ぶこと」は,まず第一義的には推論の過程というより,成功に結び付いたために一般化した実践を守り,広げ,伝え,発展させる過程である-その理由は,実践が行為する個人にはっきりした利益を与えたからではなく,それらが自己の属する集団の生き残る機会を広げたからである」(『法と立法と自由 Ⅰ』「ハイエク全集8」18頁,春秋社・1987年)とハイエクが述べているように,それは個人と社会が生き残る過程で,抗いようもなく変えられてしまうものなのである。
結局,世界的にはアングロ・サクソン型ないしこれを基礎にしたシステムが主流となり,日本人もこれに適合せざるを得なくなる公算が大きい。(適合できないという向きもあるが,むしろ好むと好まざるとにかかわらず,あるいはそれがどの程度の成功を収めるかにかかわらず遅かれ速かれ無理矢理にでも適合を余儀なくされるのではあるまいか。)
そのとき,その新しい日本人は,震災の時に先祖は犬の救援にかまけて,行方不明者の捜索に割くべき貴重な資源を浪費したと冷笑するのかも知れない。文明開化の日本人が,豊かな以前の文明について「いや,何もかもすっかり野蛮なものでした!」(渡辺前掲517頁)と全否定したように。
そのとき,日本人は死ぬのだろう。塩野七海は,作中人物に語らせている。ローマが滅びたのは,その前にローマ人が死に絶えたからだ,と。中世イタリア人とローマ人が違うように,新しい文明に適合して異なる心性を持つに至った子孫は,もはや我々日本人とは異なる民族というべきであろう。この「思いやり」や「相手の身になって考える」という美しい伝統が,より想像力に富んだ視野の広いバランスあるものとして生き残っていってくれることを強く望むが,それは余りに希望的に過ぎるのかもしれない。あるいは,進化と適合の圧力は,この美しい伝統をも容赦なく押し流して,敗者への共感を割り切り生存を確保するたくましい伝統が取って代わるのかも知れない。
誤解しないで頂きたいのは,私は,日本人はこのまま変わるべきではないといいたいわけではない。好むと好まざるとにかかわらず,日本人は変わらなければ生きて行けないだろうし,実際にその意識は変容してゆくだろう。「誰一人見捨てるべきではなく,皆平等に幸福であるべきだ」という今日の道徳観から,それから変容する未来の道徳観を拒むことは無意味である。それは,道徳的直観から,それに逆らう経済学的法則を拒んでも,その現実に抗い得るものではないとの同じである。
ただ,「死にゆく」日本人の一人として,三週間の漂流を耐えた小さな命を見捨てられなかったその心の温もりに共感し,打ちひしがれた被災地の人たちが少しでもこの温もりに励まされてくれればよいと素直に思う。それが直ちに誰かを見殺しにするというものでないのであれば。
(岸田 航/法律家)
コメント
softbank にとって犬は家族なんですから、見捨てられません。もし見捨てたら、「おまえは父を見捨てるのか」というユーザーの声が殺到するので、営業戦略上、仕方ないんです。
哲学的な内容は、難しくて理解できませんでしたが、
最後の4行はとても、共感いたしました。
こうした記事をアゴラで読めることは、 うれしいことです。
私も、 「逝きし世の面影」はよみました。 ところで、 イギリスの外交官とはアーニスト・サトーですか? 彼の日記はおもしろいですよ。
ところで、 私たちの家で子猫が死んだ時、 母がその死骸を涙をながしながら胸にだきしめて、姉とと私が花と水と線香とスコップを持って、 母について子猫を埋める場所までいったことを今でもよくおぼえています。
母はよく、 「一寸の虫にも五分の魂」といって、 田舎の子供たちがよくするように蛇に石をなげることもしてはいけないと教えました。 他の子供たちが蛇に石を投げる時は、 私は蛇に石があたらないように投げました。
母は、 浄土真宗の教えと親鸞について村の人とよく話していまししたし、 また子供にもきかせました。 かっての日本では、仏教の教えがいきていたとおもいます。
それから、 犬を助けて老人を助けなっかた僧侶は禅宗かと思います。 禅宗はきびしい。 浄土真宗ではないです。
それから、アングロ・サクソンにはキリスト教の背景がありますから、 日本でいうほどのアングロ・サクソン型ではないです。 アゴラの論調の方がよほどアングロ・サクソン型です。
20年ほど前に、 こんなことがありました。 メキシコ沖の海から北極海に帰る途中のクジラが、 どういうわけかカルホルニア州のサクラメント川に迷い込みました。
そこで、 このクジラくを海に追い返すために、 海上警備隊まで動員して、 鐘と太鼓、 花火、 さらには超音波のたぐいまでもちだされました。 マスコミは、 行きつ戻りつするこの迷子クジラの様子を連日報道しました。
これは、 逆にいえば、 人と人とのつながりが希薄になって、ひとびとがなんとか連帯感を得たいということかましれませんが、 これもアングロ・サクソンです。
孫氏の発言が気に入らない人は単に犬ぎらいなだけなんじゃないかと思いました。食べて排泄して飼い主を喜ばすだけの生き物には価値を見いだせない(あるいはより少ない価値のみを見る)という。
我々が正しく「捨てる勇気」を持てなかったのは、思いやりと共感の伝統のせいではなく、むしろ競争や効率化を強く志向する世の中であるからだと思います。自己の利益を最大化すること、より多くの資源を占有することを目標とする資本主義の価値観の中では、各自が既得権益を保持しできるだけ大声で権利を主張するのは合理的な経済活動です。社会利益のために共感を控えるのは簡単ですが、誰かと争うのは難しい。
イースター島は行き過ぎた競争によって、マヤ文明は資源利用の効率化がすぎて気候変動に耐えられず滅亡したと言われます。
今後の世界はより人類にとって狭くなることが予想されます。少数民族や言語の消滅は加速し、文化や経済活動はより均質、効率的になっていくのでしょうが、「競争」と「効率化」が多くの場面で生存のための有効な戦略だとしても、無条件に従うべき至上の行動原理のように語られることには違和感を感じます。
日本人がアングロサクソンのように?
肝心なことを忘れています。アングロサクソンの骨の髄はキリスト教ですが、日本人は世間だけです。
オフィスでは冷酷に部下を解雇した同じ人が、日曜の教会帰りでは心から貧困層に奉仕するのです。
日本人にはキリスト教がなく、世間から落ちこぼれた貧困層になんの関心も同情もなく、害虫より冷酷に叩きつぶすだけです。
それ以前に、低福祉とされるアメリカにさえフードスタンプ制度があるのに、日本では「社会復帰できない宝くじ」である生活保護しかなく、ホームレスがなんのケアも受けられないのです。ただ経済成長のおこぼれがあっただけで、世間は世間の外に冷たく、国は極貧層を無条件に救う制度を何ら作っていないのです。
フードスタンプとキリスト教のアメリカ、国家制度も世間という宗教も極貧層を害虫としか扱わない日本。
それで日本が表面的に「オフィスでのアングロサクソン人」を真似たら、冷酷非道な地獄絵図となるでしょう。
結果は、勝ち組にとっても天国ではなく、市場経済ですらないでしょう。血族と腐敗の中国か、それとも恐怖のロシアか。
ファシズムならまだいい、最後のモラルまで崩壊し飢餓と絶望が勝利したら、二度と立ち直れないのです。
貧困層が残らず黙って餓死してくれることを、前提にしたらとんでもないことになるでしょう。
アングロサクソンになりたいなら、キリスト教を徹底して布教するか、ベーシックインカムを完備させるか、貧困層の虐殺を準備してからにすべきです。
とても重要な事を論じていると思います。自分はすてるべきは豊かさや、根拠の無い希望説。残すべきは、伝統や文化だと思う。
今の日本には他国がまねができないオリジナイティがあるのだろうか。 自国の人間が真似できないものなら、他国の人間にはもっと真似しずらい。東北の都市再建を文化や伝統を中心に考えなければ、訪問者にとっては魅力の無い町になってしまう。魅力の無い町は人口の増大は見込めない。
よく言われる日本のライバルの中国は、共産党のもとの一本の進化の道しかないが、日本には多くの進化の道がある。論者の説く道も一つの道で、それは日本人の琴線に触れる。それは経済活動の種になるものだと思う。
「人の命か犬の命か」の問題は複数の問題を十把一絡げにして論じているため、人によって論点がずれていると感じました。
この問題には「日常時か、緊急時か」「行政が公的に行うのか、NPOなどが私的に行うのか」「ついでなのか、目的なのか」という3つの異なるポイントがあります。
まず日常時で、社会に余力がある場合は、人も犬も助けることが出来ると思われるので何も問題はないでしょう。ですので日常時に関しては考えず、緊急時に関して考えます。
緊急時でも、NPOなどが私的に犬を助ける分には、それ自体が目的であれ、他の目的のついでであれ、それは彼らの自由なので論じることはないでしょう。
となると、問題なのは「緊急時に」「公的な立場にある行政が」犬などを救助することの是非であることが判ります。
私は、「海上を漂流する屋根の上から犬が奇跡的に救出された」件に関しては、人命救助や遺体の捜索の「ついでに」行われたことであり、何も問題はないと考えております。しかし、「武雄被災ドッグ(ペット)受け入れ構想」に関しては違和感を覚えました。この「武雄被災ドッグ(ペット)受け入れ構想」にもNPOが絡んでおり、市とNPOのどちらが主導的な立場にあるのかや予算はどこから出るのか等細かいことは判りません。しかしそれを除いても「それは行政がやるべきことだろうか?」と疑問を覚えずにいられません。少し古い情報になりますが、佐賀県武雄市にある杵藤保健所でも犬猫などの殺処分が行われていることが判ります。遠くの被災地のペットを救う余力があるのなら、それよりも先に地元の犬猫を救うことや地域の貧困家庭などの援助に予算を割くべきではなかろうかと思います。
http://www.animalpolice.net/jititai/jititai2004/saga.html
豊かで余力があれば捨てずに乗り切ることが出来ます。しかし余力を失ったときには捨てざるを得ないのです。これは日本でも同じです。昔の価値観を美化しがちですが、日本でも古来から姥捨てや間引きの話は枚挙に暇がありません。
「衣食足りて礼節を知る」「貧して恨むことなきは難く、富て奢ることなきは易し」
道徳を説いたところで、貧すれば鈍するのが人間です。道徳を説くよりも貧することなきよう経済を発展させることが肝要です。
「雑感後記」
このような軽い筆致の随筆にこれほどの反応があるというのは予想外でした。
筆者としては,日本人の「近視眼」的な共感性が,見えざる声なき人たちへの想像力と共感を欠く余り(あるいは見える人たちへの同情に引きずられる余り),私利私欲をもって最大限の福利を実現する市場原理や効率性が支持されない下地があるのではないかという軽い疑問を持っていました。そして,このような感性は時代によって淘汰されてしまうかも知れないということを,哀感をもって予感するのです。
日本にはチャリティーの伝統がありません。アングロ・サクソン社会などに見られるこのチャリティーの伝統が,キリスト教にのみ基づくものかは検討の余地がありますが,これがない日本社会に「弱者に冷酷」な側面があることも否定できません。問題は,日本社会が変容した先に何があるのかですが,チャリティーの伝統を欠いたまま,弱者に何の共感もないまま見殺しにする社会になるのではないかという危惧があります。快適な社会を作るという暗黙の合意が破られた社会に,いまの日本にあるような規範の遵守があるのか分かりませんし,ひとたび敗者に転落するやセーフティーネット不在のまま底辺に沈むしかなく,しかも機会がもはやないなどという社会は,アングロサクソンの奇形児というべきもので,不安定かつ暴力的な,市場を存立させる前提条件にも欠けるものになるでしょう。(チャリティーのような普遍主義的な精神がどのように成立するのかは分かりません。儒教的普遍主義でも成し遂げられるのかも知れませんし,キリスト教的伝統の上にしか成立しないのかも知れません。ただ,それは意識的に形成できるものではなく,自生的秩序として自ずから形作られてゆくものだと諦念と共に思います)