英語教育について(再考)

松本 徹三

日本でもいよいよ小学校5年生より英語を教えることになるとの事で、どうしたら教員を確保出来るかを考えなければならない文科省は大変らしい。しかし、そんなことを言うなら、十数億のこれまでは英語とは殆ど無縁だった人口を抱え、これからは小学校1年生から英語を教えることを考えている中国はもっと大変だろう。しかし、私には、こんなことを悩む必要は全くない様に思える。すべからくプロの作った電子教材に頼り、先生は介添役に徹すればよいだけだと思うからだ。実際に、中国は迷うことなくそうするだろう。


もともと言葉というものは、耳で聞くことから始まり、口真似で自ら喋ってみて、そのうちに読んだり書いたりすることを憶え、それからずっと後になると「あ、そうか。こんなルールになっていたんだ」ということで「文法」というものがある事に気がつくのだ。

それなのに、日本の英語の教え方は、殆ど外国人と話す機会もなったような先生が、先ず教科書を読むことを教え、すぐに「文法」の講釈を始めるのだから、多くの人達が、中、高、大学と合計10年間も英語を勉強して、試験勉強にも四苦八苦したにもかかわらず、実際には殆ど役には立たず、今や「英語に弱い日本人」という世評が国際的なビジネスの世界でも定着してしまったのだ。今の状況が続くなら、平均的な英語の能力で日本人が中国人に抜かれるのは時間の問題だ。

こんな事は言い尽くされたことで、今更わざわざ繰り返すこともない。そもそも日本語の「語学」という言葉自体が変な言葉なのだ。日本人の子供達は、両親を初めとして周りの人達がみんな日本語を喋っているから自然に日本語が喋れるようになるのであり、別に日本語学者から日本語を習得したから喋れるようになったわけではない。よく喋る子は「あの子はお喋りだね」と言われることはあっても、「あの子の語学力は抜群だ」などと褒められることはない。これは英語のような外国人の言葉の場合でも同じである筈だ。

今でも「英語なんて、たまたまアングロサクソン系の人間が喋っているだけの言葉に過ぎないのに、何故『英語が出来ないと大変だ』などと言って卑屈になるのだ」と憤慨している人がいるが、こういう人達は単純に世の中のことを知らないだけだ。滅多に雨の降らないところに住んでいる人が、「傘など必要ない」と息巻いているのに等しい。

今や、印刷されたものであろうとネット上にあるものであろうと、知識の源泉となるものの多くは英語で書かれており、英語が分からないと、知識や情報を得るのに余分な時間がかかる。色々な局面で、場合によればこれが致命傷になることもある。ビジネスの世界では多くの商談や国際会議では英語が使われるのが普通だから、英語が分からないと極めて不利になる。(英語に弱い日本人が中心になっている日本企業がビジネスで不利になると、日本の経済力が弱まり、税収も雇用も伸びないから、その害は多くの日本人に及ぶ。)

経済活動には無縁の人で、「フランス文学やドイツ文学の機微に触れたい」とか、「ラーマーヤナや李白の詩をオリジナルの韻を踏んで楽しみたい」とかいう人には、英語などはもともと無用の長物だが、多くの普通の人達にとっては、これからは、大工さんにとって良いカンナが重要なぐらい、英語は重要になる。だから、国は、自国の少年少女の為に、最も効率的な英語の勉強方法を取り入れてやらねばならない。

私はつい最近までは、「小学生や幼稚園児に無理して英会話を教える必要はない」と考えていたが、最近ある言語学者の話を聞いて、この考えを180度改めた。

聴覚が大脳の記憶中枢に繋がるところの仕組みは、歳が若くて大脳が未発達の時期ほど効率的に機能するらしい。歳をとっていろいろな記憶が大脳の中に詰め込まれていくと、これが邪魔して、聞いたものがそのまま記憶されるのが妨げられるのかもしれない。音楽の才能は幼い時から磨くべきというのと同じ理屈なのだろう。そして、こういう記憶は一旦収まるべきところに収まると、長い間呼び起こされることがなくても、失われることはないようだ。「幼い時に英会話を仕込まれても、長い間実際に使わなければ元の木阿弥ではないか」と考えていた私の「幼児期の外国語教育不要論」も、これで崩れてしまった。

こういう理解に立つと、英語を普段あまり使ったことのない日本人が小学生や幼稚園児に英語を教えるというのは、意味がないだけでなく害があることになる。英語を母国語として、或いは母国語同然に喋っている人に習えばよいかと言えば、それだけでも十分ではないように思う。ここはやはり専門的な言語学者の出番だ。

勿論、言語学者に直接習えという事ではない。言語学者や心理学者を動員して作り上げた電子教材を使うのが一番良いという事だ。勿論初めから最後まで英語以外は使わず、日本語は一切介在させないのが良い。目で状況を見ながら耳で聞き、これを何度も繰り返せば、日本語を介在させずとも意味は自然に理解されるはずだし、思考自体が英語でなされるようになる。それを口真似で発音をさせ、コンピュータがこれを分析して誤りを正し、正しい発音になるまで繰り返して喋らせればよい。

或る程度上に進めば、勿論読み書きも習得させるが、スペルはアルファベットに分解して覚えさせるのではなく、一つ一つの単語の形で覚えさせるほうが良い。そうすれば、将来の速読術の習得の基礎が出来る。

私などは、終戦後進駐してきた米兵に「チョコレート、ギブミー」とは叫んだものの、商社に入ってインド人のバイヤーのアテンドを命じられるまでは、英語を聞いたり話したりする機会は殆どなく、みんなが英語を母国語として自然に話している米国本土に行ったのは34歳になってからが初めてだった。だから、今となっても聞き取りは極めて不得意だ。速読術などは教えてもらったこともなかったから、映画の英語の字幕などは半分も読めない。

それでも日常平気で英語を使って仕事をしているのは、性格が相当厚かましいのと、ビジネスのポイントや心理の機微を掴むのが割と器用だからだろう。だから、会議の中でも、ここが重要と思えば、相手が喋り捲っていても遠慮なく割って入って、最終的にこちらの言い分を通すという事も出来ている。しかし、もし私の性格がもう少し控えめで、仕事に対する情熱も人並みだったら、私の英語の能力では殆ど仕事にならないだろうと思う。

私はこれまで50年近く仕事の現場で色々な人を見てきたが、一般に日本人は性格が控え目で、ユーモアや冒険心があまりなく、その上、交渉事などを戦略的に組み立てていくのが不得意なようだ。そこに英語の会話能力が低いということになると、絶望的な状態になってしまう。それ故、会議などでも日本人は概ね黙っている。それなのに、後になると、「欧米人は何事によらず東洋人を疎外して、自分達だけで決めてしまう」とぶつぶつ言う人が多いのは困ったものだ。

性格は生まれつきだからどうにもならないところが多いが、そこは仕事に対する情熱があれば何とかカバー出来る。戦略的にものを考える習慣も、仕事を通じてのトレーニングで何とか培っていくことが出来よう。しかし、英語の会話能力や英語を読むスピードについては、若い時からやっていないと相当のハンディキャップを負う事になる。

だからこそ、若い人達の為の効率的な英語教育のあり方を考える事は、日本にとって極めて重要であり、今こそ国が本気で取り組むべきことであると強く思う。