英語教育:何を犠牲にすればいいのか  井上晃宏

2011年07月08日 14:26

「教育」とは便利な言葉だ。事実上、すべての社会問題の対策になる。交通事故が増えれば交通安全教育、非行が増えれば道徳教育、環境問題が話題になれば環境教育、臓器売買が発生すれば医学部で医療倫理教育といった具合だ。

「ちゃんと教育しろ」と主張する人は、教育のコストについてはほとんど無関心だ。コストといっても、教師の人件費とか校舎の維持費とか教材の製作費用のことではない。時間だ。学校教育の授業時間は有限であり、何かを増やせば、何かを減らさざるをえないという、当たり前のことだ。

松本徹三さんのような方は、「時間は十分で、やり方が悪い」と思っているらしいが、とんでもない。日本の学校教育で、英語教育に割かれている時間は、外国語教育の常識に照らして、ひどく少ないのだ。


中高では、英語の授業は週4~5時間である。合計すると860時間くらいだ。アメリカ国務省の職員が、アラビア語や中国語などのように、表記法も音韻構造も英語と全く異なる外国語を業務に使える水準まで学習するには、給与を支給されつつ、短期間で集中してやっても、2700時間もかかる。まして、6年もかけて、大してやる気のない生徒がダラダラと学習する中高の学校教育の場合、860時間で達成できる水準は、アメリカ国務省職員とは比較にならないほど低い。

ところが、戦後の教育行政では、英語の授業時間を増やそうという試みはされてこなかった。むしろ、授業時間は減らされてきたのである。

小学校で3年生から英語を必修にすることが決定されているが、これも、週1回45分だけである。これで何か成果が上がると思う方がおかしい。

しかしながら、学校教育の科目編成を大きく変えない限り、英語教育にこれ以上多くの時間を割くことはできない。言い換えると、他の科目の学力を犠牲にしない限り、英語力は向上しない。ところが、英語を増やすために、他の科目を削減ないし廃止しろという議論はない。この程度の英語力(TOEIC450点)でいいと社会が合意しているのだ。

なぜこの程度でかまわないのか。理由は二つある。学問的理由と経済的理由だ。

大学教育をほぼ完全に母国語で行える国は、アジア圏には日本しかない。どんな分野でも、日本語の教科書が存在する。他のアジア諸国より100年も前に近代化を達成した明治維新の成果である。翻訳されていない文献を原語で苦労して読むのは卒業研究かゼミだけだ。

日本は貿易立国と言われているが、実は、貿易依存度(輸出入額の対GDP比率)は欧州のどの国よりも小さい。外国との取引が少ないので、就職にも英語は必要ない。企業は採用者の英語力を見もしないのである。武田薬品工業は新規採用者をTOEIC730点で足切りすると発表したが、大半の企業では、大卒者の平均、TOEIC450点程度でも、業務が回るのだ。

「企業の競争力向上のために英語教育の強化が必要」という意見を持つ人もいるかもしれないが、それなら、英語で採用し、英語で業務を行う企業が競争力を持ち、市場を席巻するはずだが、そんな現象は起きていない。

英語教育を推進せよと主張する人たちに聞きたいのだが、あなた方は、英語の代わりに、どの科目を犠牲にすべきだと思っているのだろうか。そして、その犠牲は、英語のメリットに見合ったものなのだろうか。

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