維新の会は前田敦子である --- 島田 裕巳

アゴラ編集部

前回寄稿した「なぜ女性アイドルは「卒業」しなければならないのか その宗教学的考察」は、予想以上に反響が大きかった。ツイート数は1000を超え、2ちゃんねるではスレッドが立った。それだけ、前田敦子というアイドルがAKB48というグループを離れると宣言したことは一大事件だったのだ。


この卒業という出来事が意外なものとして受け取られたのは、彼女の卒業後の「進路」が決まっていないことが大きい。しかも、彼女はすでに映画やテレビドラマで主役をつとめた経験があるが、それらの作品は当たらなかった。果たして彼女は卒業した後どうなるのか。必ずしもばら色の未来が開けていくようには見えないなかでの決断に、ファンをはじめ周囲は不安を感じた。にもかかわらず、彼女は自ら卒業を決めなければならなかったのだ。

昔なら、女性アイドルにはテレビという仕事場があった。各局に歌番組があり、人気のアイドルはそれをはしごした。しかし、今やアイドルがテレビに出る機会はかなり限られている。実際、卒業宣言直後、前田敦子がテレビで心境を語る機会は用意されなかった。

現在の社会は豊かではあるものの、かつてのような余裕は失われている。それは、選択の幅を失わせることに結びついている。前田は、グループにとどまっても、今以上の飛躍を果たすことはできそうにない。おそらく残っても、人気が衰えていくだけだろう。総選挙という仕掛けは、それを白日の下にさらす役割を果たすことになる。

それは実際の総選挙ということを一年以内、あるいは一年数ヶ月後に控えた政界についても言える。前回の総選挙では、政権交代が起こり、民主党を中心とした政権が誕生した。しかし、今ではその人気は衰え、次の選挙で民主党が第1党を確保する可能性はかなり低くなっている。

代わりに注目を集めているのが、橋下徹大阪市長が率いる「大阪維新の会」である。維新の会では、維新政治塾を開講し、そこには次の総選挙で維新の会から立候補しようとする人間が2000人以上集まった。週刊誌などの予想では、近畿地方では維新の会が圧勝すると報じられている。

そこには、強力なリーダーシップを発揮する橋下のカリスマ性が大きくものを言っており、有権者は、維新の会が力をもつことで大胆な改革が行われ、現在の閉塞感が打破されることに期待をかけている。

しかし、現在において政治にできることは相当に限られている。高い経済成長が続いている時代には、十分な税収が確保され、政治の役割はそれをいかに分配するかにあった。その分、政治は力をもち、政治家は社会の動向にかなりの影響を及ぼすことができた。

ところが、現在では、税収は不足し、財政赤字が拡大している。政治家が動かせる金はなくなり、その分、その力はかなり小さくなった。民主党にしても、政権交代を実現できたのは、政権がかわりさえすれば状況が変わるのではないかという期待感をもたせることに成功したからだった。

結局、民主党がその新しさを演出できたのは、「政治主導」というスローガンによるもので、官僚制を敵にすることで、自分たちを国民の味方と思わせようとした。それは、小泉純一郎が、「抵抗勢力」という敵を作り出すことで、自らの正当性を誇示しようとしたのと方法は同じである。

では、維新の会はどうするのか。当然、新しい政策を実施しようとしても財源の不足という事態に直面せざるを得ない。維新の会の政策として打ち出されたものは「維新八策」と呼ばれるものだが、これは維新の会のホームページにも載せられていない。載せられているのは、政治塾で配られたレジュメだけである。

レジュメとされている点からしても、まだ政策としてまとまりきれていないが、一番最初に掲げられているのが「統治機構の作り直し」である。そこには、大阪都構想や道州制の導入、消費税を地方税とするなどの地方分権の強化、首相公選制、廃止を含めての参議院改革などである。

それ以外の政策は、橋下が大阪府知事として、あるいは大阪市長として実践してきた公務員改革や教育改革を国のレベルに拡大した形のものである。経済政策は、規制緩和による競争力の強化に重点がおかれ、社会福祉政策では最低生活保障はするものの後は個人の自助努力に任せるといった自由主義的な内容である。

政治にできることの幅が狭まっているなかでは、財政的な裏づけが必要がないものをスローガンとして掲げなければならない。そこで、民主党が政治主導に飛びついたように、維新の会は統治機構の作り直しに着目している。それにはたしかに財政的な裏づけは必要ない。

この統治機構の作り直しによって、現在の社会が抱える問題が解決されるのだろうか。それに、首相公選制といっても、当然憲法の改正が必要で、実現は用意ではない。導入するにしても、議会との関係をどうするか、大臣はどう選ぶのか、首相を辞めさせる権限は国民に与えられるのかなど、制度設計は相当に難しい。

それに、国政への参加が地方分権の拡大のためと位置づけられるということは、維新の会の候補者は自分たちの権限をわざわざ縮小するために議員になることになってしまう。参議院の場合だと、その廃止のために議員になるという矛盾した状況に立たされる。参議院には候補を送らないのかもしれないが、送るとすれば、その正当化はかなり難しい。

維新の会は、憲法の改正をスローガンとして掲げて、選挙に臨むのだろうか。統治機構の作り直しということは、改憲を目指す政党として国政に臨むことを意味する。財政が苦しいなかでは、政党としての新味を出すにはそこしか行き場がなかったようにも見える。前田敦子が卒業を強いられたように、維新の会も改憲を目指す政党にならざるを得ないのかもしれない。

今のところ、卒業した後の前田敦子がブレークする可能性はかなり低い。意外な形でブレークするかもしれないが、それはまだ未知数である。

同じように、維新の会が整合性と実現性を兼ね備えた政策を打ち出し、それで国政に進出して、一定の成果をあげられる可能性は低い。アイドルが活躍できる場が狭まっているように、政治家や政党が活躍できる場は狭まっているのである。

島田 裕巳
宗教学者、文筆家
島田裕巳の「経堂日記」