制限すべき「いじめ側の人権」と、問うべき「親」の責任!

北村 隆司

「いじめ」は、民主主義の一丁目一番地である「基本的人権」の侵害行為で、あってはならない事は論を待たない。

とは言え、成熟した民主国家では、人権とは何か? と言う「普遍的」問題が日常の会話にも浸透しているが、直接的には何の役にも立たない「抽象論」を嫌う日本では、一過性の個別具体的な問題で「賛否」を論ずるのは好きだが、人権の様な「普遍的問題」で論議を闘わせて、国民的同意に達する事は至難の業である。

この事を頭に入れた上で「いじめた側の人権は、どこまで守られるべきか?」を考えてみた。


私は、「いじめた側の人権を限定する」だけでなく、「いじめ側の親の責任」も追及すべきだと思っている。その客観的根拠は、「憲法」と「親権」である。

憲法では、「自由と権利は、国民の不断の努力によつて守られるもので、国民はこれを濫用してはならず、公共の福祉のために利用する責任を負っている。又、国民の権利は、公共の福祉に反しない事を前提に尊重する」と規定している。

「いじめ」が「公共の福祉に反する」以上、「いじめた側」の「人権」が制限されるのは当然であるが、大津市のいじめ問題の究明には、加害者、被害者だけではなく、教育行政当局と加害者側の「親権者」も含むべきだと思う。

それにしても、大津市教育委員会の「事実確認は可能な範囲でしたつもりだが、いじめた側にも人権があり、教育的配慮が必要と考えた。『自殺の練習』を問い ただせば、当事者の生徒や保護者に『いじめを疑っているのか』と不信感を抱かれるかもしれない、との判断もあった」と言う言い訳は、とんでもない話である。

そもそも、教育委員会は「いじめ」が起こる事だけで恥ずべき立場であり、「自殺」との因果関係とは関係無しに、「いじめ」の有無の調査を徹底的に行うのが最低の義務である。

「事実確認」は疑いがあるからするのであり、「疑うと不信感を抱かれる」と言う「触らぬ神にたたりなし」的な無責任な態度は許されない。ましてや「教育的配慮」とは何を指すのか理解不能で、ましてや、被害者が、憲法上の権利である「学問の自由の機会」を奪われた事実と「いじめ側に不信感を抱かれるかもしれない」と言う自己保身を同列に扱って、調査をさぼるなどは、実質的な職場放棄で、橋下市長であれば「懲戒解雇」という議論も起こったに違いない。

この様な、行政の怠惰と無能は別として、「加害者側」に人権がある事は当然であるが、どこまで認めるべきか? 結構難しい問題である。

守秘義務のある公務員が調査に当たるのだから、加害者側の「プライバシーの権利」が保障されるのは当然だが、「適正手続きに依る調査」や不法な調査で損害を受けたときは「損害の救済、公務員の罷免その他を自由に請願する」憲法上の権利も保障されるべきだと思う。

それ以外に加害者側に認められる人権は、司法の場でもない調査段階では、特に思いつかない。

通常、権利の裏には義務がある。成年に達しない子供を、管理、監護、教育するため、その父母に与えられた身分上および財産上の権利・義務を総称して「親権」と呼ぶが、「いじめ側」の親権者がこの義務を守っていない事は明白で、親権者の義務の履行実態も調査の対象にすべきである。

行き過ぎた儒教思想による家庭内の父親の専横から、母親や子供を解放する為に果たしたリベラルな報道の役割は評価しなければならないが、世相の変わった今でも、加害者側の子供の保護ばかりに偏り、被害者の人権や加害者側の親の義務を問わない記事の横行が、モンスター保護者やいじめ児童を大量生産した一因だと思うと、権利の裏に義務がある事を忘れた報道は百害あって一利無しである。

学校の破壊に悩むのは日本に限らない。校内暴力に悩む各国では、親権の概念を未成年保護から親の責任に軸足を移しつつある。

米国等では、教養教育(日本で言う道徳教育)や「画一的な価値観」に支配される学校教育を嫌い、子供を学校にやらず自宅で教育するホームスクールが激増している。

国が教育を支配する日本では、ホームスクールの実現は百年河清を待つに等しいが、子供の選択の幅を広げる「バウチャースクール」「チャータースクール(公立、民営校)」「マグネットスクール」等、公的機関の関与無しに子供の特徴を生かせる教育制度の実現に努力する事も、いじめをなくす為の親権者の義務の一環であろう。

完全撲滅は難しくとも、加害者の権利を抑制し、親の責任を重視する事と子供の学校選択を増やす事は、「いじめ」と「登校拒否」の減少に役立つのではなかろうか?