10万人集まれば、世の中は変わるのか?動員と革命の曖昧な不安

2012年07月22日 23:48

7月16日に代々木公園で開催された脱原発を訴える大規模な市民の集まり「さようなら原発10万人集会」の件が、ソーシャルメディア上で話題になっている。主催者発表によると17万人が集まったそうだ。警視庁は、約7万5000人が参加したと推計しており、数字にはズレがあるが、いずれにせよ10万人前後の人が集まったことは間違いないようだ。

そういえば、本日(7月22日)深夜に放送されるTBSラジオ「文化系トークラジオLife」の特集は「動員と革命~10万人で何をしようか」だという。番組で事前に出されたリスナーへの問いは「10万人集まったら、どんなことができると思いますか?」だった。

このお題と、そして「動員と革命」について徒然なるままに考えてみることにする。


皆さんに問いかけたいのだが、皆さんは10万人がいる場所に身を置いたことがあるだろうか?私は、ない。過去最高の動員に立ち会った機会を思い出してみた。意外なイベントだった。1998年4月4日に開催されたアントニオ猪木引退試合だ。このイベントは7万人を動員した。聖歌点灯で駆けつけたモハメド・アリの姿、老体にムチを打って戦う猪木や藤波の姿、古舘伊知郎による朗読、猪木による「道」の朗読などは強く印象に残った。猪木に依存するのではなく、自らが闘魂を胸に生きていくことを誓った。

その後、ジャイアント馬場の逝去などもあり、プロレス界は再編が進んだし、格闘技人気にプロレスは押されることになったが。7万人集まったところで何かが変わったわけではなかった。それは当然だ。私が矢沢永吉同様、現人神として尊敬するアントニオ猪木だとはいえ、ファンが集まったプロレス興行でしかないのだから。

10万人集まった光景というのも、ブラジルのロックフェスであるロック・イン・リオ、そしてやはり猪木が1995年に北朝鮮で行ったリック・フレアー戦くらいしか見たことがない。その他は、大きなスポーツ大会か、それこそ海外でのデモや革命くらいである。10万人集まるということは凄いことであることは間違いない。

ただ、10万人だけで世の中は変わるだろうか?結論から言うと、これだけでは変わらないだろう。その後の展開をどうするか、場の熱量は高いのか、これが鍵だと考えている。

そもそも、価値観はとっくの昔に多様化、分化している。一億総中流、画一化などという言葉があったが、私達はもう、手をつなげないくらいに分化している。

それこそ、私が高校生、大学生だった90年代前半に話題になったのは、ドリカムやB’zがミリオンを連発するくらいに売れているのに、サビを歌えない人がたくさんいるのはなぜか?ということだった。数百万枚売れたからと言って世の中が変わるわけではない。音楽の世界の話で恐縮だが、国民的ヒットなどはあり得ない時代になっているし、それに匹敵するくらい売れたところで、共通体験は持ちにくい。

出版や音楽の世界では、今や10万部(枚)をこえる書籍、アルバムは大ヒットどころかベストセラー扱いされるレベルになっている。いや、数万部(枚)でも御の字だろう。だが、10万部(枚)売れたところで、多くはあっという間に風化されていく。それこそ、もしドラも片付けの魔法のこともとっくに忘れているのではないかと感じる。

ただ、たとえ部数、枚数が少なかろうと、そこに何らかの仕掛け、次の展開があるなら社会現象化する可能性はなくはない。

それこそ、古市憲寿氏の『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社 2011)は、正確な部数は把握していないが、おそらく15万部は突破していないだろう。いや、10万部もこえていないかもしれない。それでも、話題となり、影響力を持ったのは、主張が分かりやすかったこと、その後のメディア展開などがあったからだろう。20代の若き東大院生(・・・よく社会学者という肩書きで紹介されるが、博士課程在学中でもそう名乗れるのかということに激しく疑問を抱いていることは、この場を借りてつっこんでおく)でルックスもそこそこいいという、プロフィールの影響もあるかと思うが。もっとも、未だに彼やこの本の存在すら知らない人も多数なわけだが。

書籍や音楽というのは特殊な事例かもしれないが、10万だ100万だと言ったところで、それだけで1億2000万人の社会が変わるわけではなく、次の仕掛けが大事なのである。

日本でもデモが盛んに行われるようになっているが、主催者、および参加者が次の一手を考える、あるいは次の行動を誘発しなければ意味がないだろう。17万人を集めたこのイベントの主催者は次の一手をどう考えているか、あるいは参加者、デモの存在を知った人はどう動くのか?これに注目している。

それこそ、海外でのデモや革命での起こり方でも、数百人規模の学生のデモが、10万人規模になり、ついには80万人規模のデモになったというような例はある(これは、チェコの例だ)。

個人的には、坂本龍一の「たかが電気です」発言は、立派な炎上マーケティングで、この言葉のツッコミどころも含めて、かなり計算していたのではないかと考えている(もっともこの言葉だけが一人歩きした感があるし、「電気つかって音楽をやっているくせになんだよ」というツッコミも多数あったが、元々彼は70年代にも原発に反対しているし、そういう意味では40年間矛盾し続けている)。

なお、デモについて「具体策がない」「エネルギーのことをわかっていない」という批判があるし、私もそのとおりだと思うのだが、そもそもデモにも種類はあるし、民衆の感情を伝えるものなので、それを期待してもしょうがないと考えている。参加する側にも、受け止める側にもリテラシーが必要だ。そうやって浄化されていくのだろう。

やや話が拡散してしまった。

まとめになるが、要するに10万人集まったところで、次のアクションにつながらなければ(もっと言うと、次のアクションにつなげる強かな工夫がなければ、次のアクションをデザインしなければ)、世の中は何も変わらないだろう。これを受けて、世の中を動かす力を持っている人を動かす力がなければ意味がない。デモに集まる民衆に、具体策など期待しないし、それを受けて考えるのは政界、経済界、あるいは学者の仕事だと考えるが、彼らもまともな方針を考えられるだろうか。

果たして原発を止めることが、果たして自分たちにとって良いことなのかどうかについても、冷静な議論を行いたいところである。

10万人集まるかどうか、集まったかどうかは実はどうでもよくて、人数だけでない熱量が必要だとも思うわけである。

こうして、虚しさの連鎖が続いていくのではないかと、曖昧な不安を抱くわけだ。

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常見 陽平
千葉商科大学国際教養学部専任講師

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