「大きな社会」のルールをどう設計するか - 『フリードリヒ・ハイエク』

池田 信夫

フリードリヒ・ハイエクフリードリヒ・ハイエク
著者:ラニー・エーベンシュタイン
販売元:春秋社
(2012-08-24)
販売元:Amazon.co.jp
★★★☆☆


ハイエクが死去して20年がたつ。彼は今では歴史上の人物に数えられるが、その人生の大部分は不遇だった。各国の大学を転々とし、主著『自由の条件』は酷評され、講演では卵をぶつけられた。いま時代は一めぐりして、ハイエクは常識になったようにみえるが、彼はいまだに十分に理解されていない。彼を「自由放任主義者」だと思っている人が多いが、彼の終生のテーマは自由な社会の制度設計であり、晩年の彼は『法と立法と自由』で法秩序の設計を考えた。

その際、重要なのは、多くの異質な人々で成り立つ大きな社会(Great Society)がそれ以前の部族社会とは根本的に異なるということだ。部族社会では、そのローカルなルールを全員が知っていればいいが、大きな社会ではすべての人々に受け入れられる普遍的なルールが必要だ。それは実定法として天下りに与えられるのではなく、多くの紛争処理を通じてlawがlegislationとして成熟しないと、日常生活で役に立たない。

日本は部族社会をなし崩しに拡大し、会社共同体や業界共同体などのローカルルールをアドホックにつなぎ合わせて大きな社会を運用してきたが、最近の政治の混乱はそのやり方が限界に来たことを示している。実定法は日常生活とは無関係なので、普段は無視されているが、何か事件が起こると過剰に「コンプライアンス」が追求される。「ガラパゴス化」した製品は世界市場で競争力を失い、中国はおろか韓国にも抜かれようとしている。

ここで考えられる選択肢は二つだ。一つは大きな社会に適応して普遍的なルールを構築すること、もう一つはグローバル化を拒否して部族社会の秩序を守ることである。これはそれほど自明な選択ではない。西洋の大きな社会の基礎にはキリスト教の個人主義があるので、「グローバリゼーションの実態はアメリカナイゼーションだ」という反発にも根拠がある。競争からもう降りて、平和にのんびり暮らしたいという気持ちもわかる。しかし資本主義は、同じ位置にとどまるためには走り続けなければならないシステムだ。そこから降りて、今の生活水準を維持することはできない。

本書はジャーナリストの書いた伝記で、ハイエクの生涯についてはくわしく書いているが、学問的内容についての解説は表面的だ。しかし彼が追究した大きな社会のイメージがどういうものだったかを知る役には立つだろう。