最高裁のあり方に、是非とも「批判票」を

松本 徹三

今回の衆院選の投票率は相当高くなるのではないかと期待しているが、今回は、同時に行われる「最高裁裁判官国民審査」にも、是非とも何等かの動きが有って欲しいものだ。というのも、最高裁の「無作為」の為に放置されている「一票格差」などの不条理な現実は目に余るものであり、これに対する国民の批判が何らかの形で現れないと、最高裁の裁判官達は何時までも反省する事がないように思われるからだ。


具体的に私が提案したい事は単純だ。先ず、この件に関心のある人がネット上でこれまでの判決履歴などを多くの人達と共有し、個々の案件の表決に際して、具体的にどの裁判官がどのような投票をしたかを明らかにした上で、その非を糾弾する事である。この様な啓蒙活動の結果として多くの有権者がこれらの裁判官にX印をつければ、それらの「批判票」が、たとえその裁判官を罷免するには程遠いものであっても、「最高裁」のあり方に一石を投じる程度の効果はあるだろうからだ。

現在、最高裁裁判官は合計15名だが、慣習上、そのうち8名は司法官(判検事)出身者になっている。これらの人達は、判事補に任命された後、公務員として下級裁判所から3年を目途に転勤を重ね、年功序列で上級裁判所へと昇進した後に定年退職する。この間、彼等は、最終的な人事権を持つ最高裁事務総局が定めた基準に基づく勤務評定を受けるので、賢い人であればある程、変化を避けて慣習や前例を重んじ、波風を立てないように気を配り、得点より失点をしないように心掛ける。

だから、「一票格差」や「自衛隊」、「集団自衛権」、或いは「私学助成」等を「違憲」とするような「議論を呼びそうな事」は、当然の事ながら一切やらない。「行政裁判」においては、行政当局側に非があると断ずるような判決は滅多にない。

15名中の残り7名は、一般公務員、弁護士、教師、等の中から選ばれているが、この人達の過去の投票実績を見ると、比較的前例にとらわれる事が少ないように思える。それなら、そもそも、15名の構成員を「判検事出身者」と「その他」の間で8対7で分けるという「慣習」の可否こそが、先ずは問われて然るべきではないだろうか?

明治維新に際して、日本は、それぞれの分野で、欧米各国の中から一国を選んでその制度を範とするが慣わしだったが、法制度についてはドイツを範とした。だから、大学でも、法学部の学生はドイツ語を学び、ドイツの法学書を読んだ(その中で制定された明治憲法も、この影響でプロシャ流の「統帥権の独立」を謳っており、これが不幸にして先の大戦の遠因になったとも言われている)。

ところが、先生格のドイツは、敗戦後これまでの法制度を自ら全面的に見直し、我々から見ると、極めて柔軟にして強靭、且つ国民にとっても極めて親切な法制度の体系を作り上げている。

ドイツには最高裁に当たるものはないが、「憲法裁判所」「通常裁判所」「労働裁判所」「行政裁判所」などの各分野別に分かれた数個の裁判所がその機能を果している。中でも特筆すべきは「憲法裁判所」であり、この裁判所が種々の事象を「違憲」と表決するのは日常茶飯事の由である。その事もあって、戦後のドイツでは既に70回以上もの憲法改正が行われているというから、これは驚きだ。これに対し、生徒だった日本は、戦後約20人のGHQのスタッフが約20日で起草したといわれている現在の日本国憲法を、終戦後70年近くにもなる現在に至るまで一回の改正もしていないのだから、この違いはすさまじい。

裁判所が真に国民の為になろうとしている点でも、現在のドイツには見習うべき事が多い。先ず、日本では2012年9月5日現在の裁判官の定員が3,684名とされているのに対し、ドイツでは約30,000名程度はいると思われる(手許にある1989年の数字では17,627名となっているが、その後東独合併があり、裁判官の数は倍近くになったと聞いている。裁判所の大半は駅ビルの中などアクセスの良いところにあり、裁判がない時は市民の集会などに利用されている)。

日本の裁判官は、最近は若干増えたとは言うものの、圧倒的に数が足りないのは明らかだ。日本の裁判官は一人当たり200-300の事案を抱えていると言われており、土日も休まず仕事をしないとまともな人事評定は得られないとも聞いている。従って、日本の裁判所は、出来るだけ多くの事案を「示談」などで済ませるように誘導する傾向があり、これが、地元の顔役などが影響力を持つ温床になっているのも事実のようだ。

こう言うと、一生懸命働いている裁判官に同情が集まるかもしれないが、上層部の方に行くと、そんな同情はとても得られそうにはない。「日独裁判官物語」という映画をご覧になった方は、その冒頭のシーンに一種の衝撃を受けられたと思うが、その映画が映し出したシーンはこういうものだ。

先ず、日本の最高裁の光景。裁判官はお抱え運転手付きの黒塗りの高級車で出勤する。玄関口には男性秘書と女性秘書が一人ずつお出迎え、女性秘書が先導し、男性秘書は鞄を持って恭しく後に従う。次に、同じ機能を持つドイツの「憲法裁判所」の光景。大雨の中を雨合羽を頭からかぶった男性がスクーターで出勤する。スクーターを所定の場所に駐めた男性は、雨合羽を手で押さえながら玄関口まで歩き、足早にビルの中に入る。彼が裁判官なのだ。

これは、何も裁判所に限った事ではなく、現在の日本を象徴的に現す光景だ。下はよく働くが、うまく出世コースに乗りたいので、決して無理はしない。常に上の意向を確かめながら、流れに逆らわないように細心の注意を払う。一旦流れに乗って、上に上がってしまえば、黒塗りの専用車や忠実な秘書を使え、手厚い退職金を貰って安定した老後を過ごせるからだ。

話を元に戻し、三権分立のことを語ろう。

立法府は選挙の洗礼を受けるので、どうしても人気取りの政策に走る。行政府は法の枠の中でしか仕事が出来ない。これに対し、法を厳格に解釈し、それを執行する事によって、「筋の通らない事」が世の中にはびこる事を防ぐのは、司法府の仕事だ。そして、その根幹は、筋の通った憲法を制定し、多くの事をこの憲法に照らして判定していく事にある。現実に、米国の例を見ても、「黒人参政権」「婦人参政権」「黒白人学校統合」等の歴史的変換は、何れの場合も「最高裁の違憲判決」が引き金になっている。

現在の日本の大改革も、法体系の改革、最高裁の改革なくしては、遅々として進まないのではないだろうか? 最高裁裁判官の国民審査制度を、衆院選の陰に隠れた「有名無実のもの」にしてしまってはならないと思う。