民主政治はなぜ衆愚政治になるのか

池田 信夫

今月の『文藝春秋』に、塩野七生氏がちょっとおもしろいエッセイを書いている。西洋史上最大の愚行の一つである十字軍は、熱狂した民衆が「神の声を聞いた」と信じて「民衆十字軍」でエルサレムをめざしたのが始まりだった。「民意」によって始まった戦争は無数にある。太平洋戦争も軍の上層部は確実に負けると知っていたが、朝日新聞を初めとする「民の声」に抗しきれなかったのだ。


「ウェブで政治を動かす」と信じている人々は、インターネットで幅広い民意をくみ上げれば政治はよくなると信じているようだが、現実は逆である。「民意」に迎合した泡沫野党は、横並びで「反原発・反増税・反TPP」をとなえ、財政危機にも社会保障にもふれない。多くの人々が政治に関心をもてばもつほど、このように長期的な問題を無視して大衆に迎合する衆愚政治が悪化してきた。

デモクラシーの元祖である古代アテネがペリクレスの死後、衆愚政治に陥ったのも、民衆が愚かになったからではない、と塩野氏はいう。

衆愚政とは、有権者(アテネの場合はアテネ市民権所有者)の一人一人が以前より愚かになったゆえに生じた現象ではなく、かえって有権者の一人一人が以前よりは高く声を上げ始めた結果ではなかったか。

どんな時代でも、政治を実質的に動かしているのは全人口の1割以内のエリートである。フランス革命でもアメリカ独立革命でも、武器をもって立ち上がったのは一般大衆ではなく中産階級だった。彼らは政治の結果として税を負担し、ときには国家のために戦争で命を犠牲にするからだ。

しかし選挙のときだけ投票する民衆は結果に責任を負わないので、増税を拒否してバラマキ福祉を求める。こういう「民の声」が大きくなると、それに迎合する僭主が人気を得て実権をもつようになる。だから塩野氏が指摘するように、民衆の発言権が大きくなると政治は劣化するのだ。

これは個人株主が多数を占める公開企業と同じで、ジェンセンも指摘したように、個人は他人の意思決定にただ乗りすることが合理的になる。個人株主が経営をモニターしても、経営を変えることはできないからだ。こういうときは外部のファンドがLBOで個人株主から株式を買い戻し、経営者を一元的にモニターすることが望ましい。

日本の政治も「国民主権」などというフィクションを捨て、このような啓蒙専制君主が統治するしくみに変えたほうがいい。そのためには企業と同じようにexitできることが必要なので、都市国家が未来の国家モデルだろう。その至近距離にいるのは橋下徹氏である。彼も今回の選挙で主権国家への幻想は覚めただろうから、大阪から日本を変えてほしい。