ある小児科医、松田道雄さんの京都追憶 --- 中村 伊知哉

アゴラ

松田道雄さん。1908年~1998年。京都出身の小児科医です。
梅棹忠夫さんの著書に、松田さんの本が紹介されていたので、2冊手に取ってみました。

「京の町かどから」1968年著。
ぼくが幼いころの京都、それもなじみのある区域の様子が温かく描かれています。


例えば「地蔵盆」。8月末の2日間、京都の子どもに許された夏休み最後の楽園です。スイカ割り、だるま落とし、くじ引き、幻灯。路地の奥で、大人たちが精一杯用意してくれたエンタテイメントを、町内の子どもたちが治外法権で遊びまくります。「三宅八幡」の縁日も登場します。比叡山のふもと、ぼくの出身小学校の学区にある神社の秋祭り。これも年に一度の、めくるめく楽しみでした。ひもを引っ張って景品を当てる屋台では、人体の神秘という、透明で内臓が見えるプラモデルが一番高額なブツで、当たらんと思いつつ引いてしまう。それより好きだったのは、串カツ。赤犬の肉と噂されていましたが、屋台のオッサンにそれを確かめる勇気はなく、でも、赤くて小さい肉っぽいものと粉っぽい衣の安っぽいあつあつのおやつを年に一度たらふく喰う、その非日常感が大好きでした。

その前の時代の描写には、知らない話もたくさんあります。中京あたりの丁稚の悲惨さは、想像を超えるものでした。そして、同世代からみると丁稚どもが凶暴であったというのも、なるほど、想像してみればさもありなんと微笑まされます。ラオ仕替え屋、いさざ売り、焼き栗売り。昔は、うんと静かな街中に、さまざまな境遇の子どもたちや、さまざまな業種の商売人が、それぞれのトーンで声をたてていたんだろうと想像させます。町の音を聞いてみたい。そういえば以前、京都府が市街のいろんな音を、場所にひもつけて、市民から2.0的に集めてデータベース化するという素晴らしい構想を持っていたが、あれはどうなったかな。

市立保育園の保母さんが労組を創る話も登場します。60年代でも、丁稚とまでは言わずとも、切実で過酷な労働条件だったのですね。1968年なら、ぼくが毎日、妹を松ヶ崎の保育園に迎えに行っていた。あのころ、まだみんな、暮らしは厳しかったのかな。西陣の診療所が、西陣のかたがたの互助組織として作られ、そこに共産党が乗ったという話もあります。なるほど、ぼくの祖母は西陣の共産党員で、長男(ぼくの叔父)を戦争に取られ、海軍少尉として死なせ、国家に抗う意識が強かったとぼくは見ていたのですが、案外、それよりも単に町内の互助活動をしていたところに利害の合う共産党が乗ってきたのが実態かもしれないと思いました。

毎年上映された映画をみる会の話では、去年は「豚と軍艦」、「飼育」、「用心棒」。今年は「椿三十郎」、「雁の寺」。とあります。ああ溜め息。いいなぁ。こんなめくるめく作品と同時代を過ごすなんて。当時、黒澤さんや川島さんや今村さんの新作がかかる映画館に足を運ぶ興奮、ってどんなもんだったんでしょう。これらが後世にも燦然と輝く名作であることを、同時代の人たちは認識しながら観ていたんでしょうか。いま、そんな高ぶる経験をさせてくれる同時代コンテンツってあるでしょうか。

分析にも目を見張ります。梅棹さんが説いていた京都語に関し、松田さんも自説を述べています。例えば、「お父さんがたたかはる」、と京都人は身内に敬語表現を使うとされるが、「はる」は第三者の行動の客体化であり、三人称単数のsと同様という。なるほど、これはすっきりします。

京都論から派生して、日本文化論も。松田さんは、日本人は「唯一神」を信じられなかったことが文明開化の理由であり、頑強な形而上学を持たなかったからこそ、実学として西欧文化を移入し得たと言います。そう、思想にはかぶれなかったんですよね。そして、日本の親が子にソフトに対応するのは、家屋の構造に由来する。高温高湿な日本の家屋は虫かごのように開放的であり、西欧のように孤独にはなれない、と説きます。母親からいつまでも肉体的に絶縁しない風習があり、だから孤独の状態に置かれると、狐、狸、木や石の精、祖先の霊など、手を伸ばして届くところにあるものにつかまる、と言います。うむ、大人と子どもの境がないクールジャパンの源や、庶民のコミュニケーションを礎とする高いソーシャルネットワーク力の土台が、気候風土と家屋構造にあるとは思い至りませんでした。

アメリカの社会学者リースマン教授という人がやってきたときの問答が掲載されています。「コミュニストではない急進主義者が日本にたくさんいるのはなぜか。」恐らく、日本にたくさんいたのではなくて、京大なんていう特殊なカルチェに来たからそう感じたんでしょうが、それに対し松田さんは「ビューロクラシーのないコミュニズムを信じる人は多く、アナーキズムの要素はあるが、個人主義なのにLonlyがキライだから連合する。」と答えます。小児科医の言うことかい。当時の知識人の教養レベルが半端なかったのか、フォーククルセダースを辞めて医者・学者としても大成した北山修さんのように、京都は特殊な医者を産む風土があったのか、その両方か。なんせリースマン教授の通訳は加藤秀俊さんというから恐れ入る。どうやら松田さんは久野収、末川博、桑原武夫、野間宏、水上勉といった巨人たちとつるんでいたようだが、ネットで知が連結した現在、そんな濃いコミュニティって日本にはないと思いませんか。

こりゃあ、まずいぞ。そう思って、もう一冊。
「花洛」1975著。

明治後期の京都の追憶。驚異の描写です。映像で記憶しておられるんだと思います。右脳に焼き付けておられたんでしょう、聖護院が、岡崎が、寺町が、その物売りが、遊びが、風俗が、暮らしが、輝くように文字で再現されます。思い出した。1995年に「脳内革命」で一世を風靡した春山茂雄さんも京都の医者の家に生まれたのですが、春山さんの話を聞いたことがあります。右脳に映像を焼き付ける家伝の秘技があり、それは教えられないんだが、それを使って受験などをくぐり抜けてきたので、東大医学部に進むときも半年だけ勉強、というか、映像記憶して、わけなく通った、と。京都の医者は、なんだかとんでもない秘密を持っているようです。

昔の京都には、暗くて、暑くて寒くて、よそよそしくて、抹香臭く、陰気なイメージを抱いていたのですが、読み進めるうち、映像や音がわき上がり、行ってみたいなぁという憧れに満たされました。京都の市電はとうに廃止となりましたが、さらにその前に狭軌の「京電」というのが存在していたといいます。堀川通りを通っていて、どうも西陣の実家の脇を走っていたようです。生前、祖母に色あせた花電車の写真を自慢げに見せてもらったことがあります。おそらく、それだ。電車が日本で初めて走った町。初めて小学校ができた町。明治期に入って都を奪われた京都は、精一杯の負けじ魂を見せようとしたんですね。

こちらにも知らない話がたくさん。京の女は小便桶に「立ち小便」をするのが日常だったといいます。それを大根売りと交換していたと。全く知りませんでした。てゆーか、実に見てみたい。学校では小説を読むと譴責を受けたそうです。当時のケータイ禁止令ですな。禁止しているほうは、それが正義だと思っているのは昔も今も同じ。

松田さんは、どっぷり京都だったわけではなく、茨城出身の両親のもとで、家では関東語を話す二重文化だったそうです。だからどこか醒めた目で京都を観察できるのですね。ぼくは幼くして静岡から京都に移り、そこで重い文化転換を経験しました。別の視点から、だけどインナーとして京都を視るという感覚がぼくにはしっくりきます。

登場する遊びも特徴があります。京都の遊びはみな特殊なメロディーを伴います。「どろじゅん」で泥棒と巡査を決める際も、一匹二匹あいのこ・取って逃げるはドロボの子、と歌いながら進めます。「下駄隠し」(そんな遊びよそにある?)の鬼も、げ~た~か~くしちゅ~ねんぼ~と歌いながら、何分もかけて決めます。はないちもんめは「たんすながもちどのこがほしい」です。だるまさんがころんだは、「ぼんさんがへをこいた」「においだらくさかつた」でした。”ハサミムシをみつけた近所の長やんが「これは男性性器をはさむ虫だ」とおしえてくれた”という記述があります。といいますか、あれは単に「ちんぽきり」という固有名詞です。

その中に、スカ屁した犯人を決めつける遊びが紹介されています。わが同僚、菊池尚人さんが中学生のころ、同級生の室井祐月さんを陥れた怖ろしいオナラ事件のことを思い出しました。

長々と書き連ねましたが、申し上げたいことは1点。知らなかった昔の名著がポチっとAmazonで入手できる、そのありがたいこと。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2013年3月25日の記事を転載させていただきました。
オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。