御厨貴/牧原出著『野中広務回顧録』。ぼくが京都から郵政省に就職するのと同じ頃に京都から国政に出られて以来、郵政族のドンとなっていく野中さんを眺めていたので、個人的に響くことの多い書物でした。
政策屋として政治には興味がありますが、政局に関わったり、ましてや政治家になったりすることはご勘弁なので、距離を置きながら、観察していた対象。そのオーラルヒストリーです。
知らない話もたくさんあります。
国鉄時代、大阪鉄道局の上司だった佐藤栄作局長にハンコを押し直させた。町議会議員当時、田中角栄郵政大臣に郵便局改修へのサインを迫り実行させた。国家公安委員長当時、犯人に仕立てられた河野義行さんに詫びた。こうしたお会いになったかたがたとのエピソードがしごく生きています。もっと聞きたい。
例えば細川内閣が瓦解するころ、野中さんが渡辺美智雄さんに呼び出された話。ぼく訳あってそのマンションのその部屋に住んでます。役所を辞めた後、ミッチーの事務所だった部屋に転がり込んだんです。
→ブログ「ワケあって。」
自社さ政権の頃、同じマンションで竹下さんらと麻雀してたという記述もありました。どの部屋だろうと調べたら、最上階に金丸さんの麻雀部屋があったんだって。へえ、住んで14年目にして初めて知った。
京都・蜷川共産党政権でも、総務部長と財政課長と地方課長と教育委員会管理課長は東京の官僚をもらっていたという何気ない話もビックリ。民主党政権の「脱官僚」よりよほどしたたかです。だから共産党なのに28年も知事に君臨したんだな。そこに人材を送り込んでる自治省もさすが旧内務省っていうか。
知ってる話もいくつか。
93年、自民党の野党転落後に役所とのつきあいに気を遣った話はぼくにとっても生々しい。「役人のうまい生き方を見せられたのは、郵政だったな。」多くの役所・役人が与党になびく中での郵政省幹部の振る舞いはよく覚えています。確かに、新しい与党にも野党にもそれなりにつきあった郵政省は、全国の郵便局をバックにしたぶ厚い政治対応という点で、他の役所とは肌合いが違っていました。霞ヶ関でドンパチやり合ってた通産省は、当時は内紛で大変でしたし。
97年、橋本行革の省庁再編。通信・放送行政は、独立委員会プランが官邸から打ち出されたのに対し、運輸通信省や産業通信省などの構想が巻き返しを図る中、総務省に落ち着いた。本書ではこれを総務庁が決めたように書かれているが、違いますよね、野中先生ですよね。橋本総理と話すときに江田憲司秘書官を部屋から追い出した話も書かれています。これは野中先生から直接聞いたことがあります。
通信放送2局が総務省入りで決着したのは、日本メディア政策史の重要局面です。ぼくは裏方で運輸通信省を求める自民党議員たちの声を集めつつ、最終的に総務省入りにならないものかと祈っていたので、最終的な政治裁定が出たときには永田町に向かって頭を下げました(同時にそれは時の首相に逆らった結論を出してもらったことでもあり、ぼくは担当としてクビだなと覚悟した瞬間でもあります。なお、その後これを郵政省時代と同じ3局に戻したのは竹中平蔵総務大臣。これも記録しておいていい政策史)。
小渕首相のブッチホンは始末に困ったという話。ぼくはそのホンで15年間蝶ネクタイをさせられていたんですが、他にもそういう目に遭った人がいたのかな。
自自公政権の官房長官に就任した際に、大蔵省が任期半年の秘書官から野中さんの地元の税務署長経験者にクビをすげかえた恐ろしいやり口だとか、自自公時代の選挙担当として公明党との協力は党本部ではなく創価学会とやっていたというヤバめの話がしれっと出てくる。ヤバい。
2001年自民党総裁選、小泉vs橋本で小泉さんが地方票で圧勝し首相になる直前、橋本陣営を仕切っていた野中さんと、これも訳あって寿司屋で2時間、二人きりで話し込んだことがあります。てっきり橋本さん返り咲きと思い込んでいたら、「それがなぁ、小泉が強いんや。」とつぶやかれていた。
その際「あんた選挙出えへんか?」との誘いがありました。とっさに「先生ぼくイナカ京都なんです」と返したら、「そらあかんわ」で終わりました。ああ京都出身でよかった助かった。胸をなでおろした10年前のお話です。
編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2013年6月10日の記事を転載させていただきました。
オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。