再稼働は博打でしか議論できんで --- ヨハネス 山城

アゴラ

ワシ、昔からギャンブルとは相性が悪い。勝ち負け以前にどうも普通の人とリズムが合わん。まず、競馬。馬主席で馬刺し談義をして出入り禁止。宝くじは抽選前に紛失が普通、買ったかどうかすら覚えてない。

やや興味があったのが、パチンコ。手打ち式時代の話やけど、一球一球考え考え打って1時間、20個の玉でコーラ3本もらったことがある。台を離れるときの店員さんのうれしそうな顔が忘れられん。

博打というのも、真面目に努力すれば、そこそこ勝てる。パチプロもおるし、競馬で生活しているやつも知ってるが、彼ら曰く。「普通に働くほうがよっぽど楽や」と。


「ギャンブルを仕事にしてている者は、仕事をギャンブルにすることを嫌がる」、つまり、普通の方法でリスク管理ができないことは、普通以上にリスク管理しろということや。

原発に関してよくある議論に、「交通事故で死ぬやつは多いのに、原発事故で死んだやつはおらん」というのがある。こういうことを平気で言うやつは、競輪で一家心中するタイプや。リスクというものがわかってへん。

現代社会は、交通事故というものをすでに織り込んで回っている。パトカーには、「事故」の大型掲示が備え付けてある。電話一本でJAFのレッカー車が飛んでくる。人身事故でさえ、民事・刑事とも裁判所にとっては日常業務や。だいたい、車買うと同時に強制保険に入らされる。

原発はどうか、「メルトダウン・ナウ」という看板、関電に売りつけに行ったら逮捕されるで。電話一本で米軍が飛んでくるかもしれんが、あとで損害賠償を請求される。刑事はともかく民事、いちいち裁判やってたら、裁判官は皆過労死してブラックコートと呼ばれる。まとめて処理するよりない。強制保険どころか、保険会社も嫌がってどこも引き受けん(これは福島の前からや)。

なんで、こんなことになっているかというと、原発のリスクが全くわからないからや。これまでは基本的にリスクゼロということにして、システムを回してきた。3.11以降は仕方なくリスク管理をすることになった。しかし、これは簡単には行かん。

まず、話を福島事故に限定するにしても、この事故は津波が主な原因なのかどうか、いまだにはっきりしてない。建屋に入って、事故炉を解体しながらじっくり調べないことには話にならんが、これができるのが何十年後のことかも、よう分からん。まあ、10年は無理やろ。

被害の規模かて、よう分からん。具体的な健康被害、たとえば甲状腺がんになる確率、決着するのはだいぶ先やろ。微小な確率ではあるが、「通常の場所では甲状腺がんの発生率が1000万人に10人ですが、ここの確率は11人です」と言われた瞬間、その町の不動産価格は一桁以上下がるやろ。

もっとやっかいなのは、海洋汚染や。チェルノブイリのときでさえ、太平洋の魚からも数年後に放射性汚染がみつかっている。今後、太平洋全域の漁業関係者から、「魚が売れんようになった。どないしてくれる」とねじ込まれたら、誰がどう対応するのやら。

ワシの考えを言うと。原発事故の人的被害は、迅速な避難さえできれば、なんとかなる場合が多いように思う。というより、もともと原発の近くに住まないようにする。つまり原発の敷地をもっと広大なものにすることで、かなり対応できるのとちゃうかな。

ただ、問題なのは、金銭被害や。自由主義経済にはこういう被害を増幅する機能がある。消費者に選択の自由があるということは、言い換えれば過剰に怖がる権利があるということや。これを非科学的と言ってみても仕方が無い話やし、現状の科学のレベルを考えれば、消費者の側が大きめの安全率をとることにも合理性があるやろ。

どっちにしろ、原発周辺の住宅地や太平洋のカツオを、気持ち悪がってるやつに、無理矢理買わせることはできんがな。

つまり、これから再稼働という形で原発を回すのは、事故が起こる確率も起こった場合の損害も定量できないままの見切り発車ということになる。ただし、原発を止めるという決断にも、同じ問題が含まれている。

地球温暖化は恐らくウソやろが(わしとしては、むしろ温暖化を促進すべきやと思う)、化石燃料の価格上昇は、生活水準の低下にダイレクトに関係してくる。製造業の雇用が減少することも当然やから失業率も上がる。

てなことを、皆で言うておるが、実際、何がおこるのか、誰にもわからんはずや。だたし、まずロクなことはおこらん。つまり問題は、誰の生活水準が、どれぐらい下がるのかということや。これがはっきりするのも、おそらく十数年はかかるやろ。

原発のリスクにしろ、脱原発のリスクにしろ、ホンマのことを言えば十数年かけて、データを集めて、皆で議論をして、というのが正しいやり方なんやろけど、技術的なり理由でそれは無理やと思う。

機械というものは、動かさないでいると劣化が進む。5年間放ってあった自転車は、たぶんまともには走らん。ましてや原発のように、圧力を閉じ込める装置の場合、設計段階から加圧した状態で安定するようになっているから、脱圧した状態で長期間放置するのは目に見えない危険がある。3年前に死んだばーちゃんが愛用していた圧力鍋を、いきなり使ってみる気にはならんやろ。ばーちゃんに会いたいなら別やけどな。

原発の場合、もちろん、うんざりするぐらいの丁寧なメンテをしているはずやが、それにしても10年単位のブランクというのは長すぎる。入社10年未満のスタッフは、動いている原子炉を見たこともない。というのも、気持ちの悪い話や。電力会社が再稼働を急ぐのは、経済的理由だけではない。これはワシも同情する。

そやから、10年間原発を止めて貧乏したあげく、劣化した原子炉を無理矢理、再稼働してドカンというのが、日本にとっても、道連れにされる全人類にとっても最悪のパターンということになる。

結局、科学的な議論は断念して、遅くとも数年のうちに、エイヤーと再稼働するか、トリャーと脱原発に行くかしか選択肢はない。科学的には、どっちが得か分からないのに決断する……すなわち博打や。

前にも書いたが、「国体護持のために核武装の選択肢を死守せよ」とか「人類は悪魔の発明である核科学と決別すべきだ」とか、筋は通るが暑苦しい思想のほうはこのさい、こっちに置いておいて、理性的に原子力を論じるつもり(アゴラリアンはほとんど、その口やろ)なら、ある覚悟がいる。

本来決断できないはずのことを、あえて進めているんやから、本質的に自分たちのやっていることはギャンブルやと認識する。特に原発近傍に住んでいるわけでもなく、景気が悪くなれば即失業する可能性が高いわけでもない立場のワシらは、他人のリスクに賭ける博打をしている。競馬の予想屋みたいなもんや。

そやから、二つのことを気をつけるべきやと思う。ひとつは、再稼働推進派は脱原発派を、脱原発派は推進派を、そのことだけをもって人格的、倫理的な非難をせんことや。

次のサイコロの目に半とかけてるやつが、長とかけてるやつを「ロクでなし」呼ばわりしても、仕方が無い。ある意味、同じ穴のムジナなんやからな。

二つめは、新しい資料が出たら謙虚に見ること。そやから、推進派と脱原発派の間を揺れ動くのは、現状ではむしろ誠実な人間の証拠のように思う。

さて、お前はどうなんじゃ、という声が聞こえるようや。ワシは何度も言うが、再稼働懐疑派や、現状ではやめたほうがいいという立場。ただし、ゴリゴリの脱原発派ではない。この次は、ワシの立場から、「もし再稼働するなら」という仮定で考えたことをまとめてみたい。また、読んでくれるかのう

ヨハネス 山城
通りがかりのサイエンティスト