大学入試センター試験見直しをめぐる奇々怪々 --- 入谷 秀一

2013年07月21日 10:32

●なぜ今センター試験廃止案が?

今年6月上旬、政府・自民党が主導する教育再生実行会議(座長・鎌田薫早稲田大学総長)は大学入試改革として、高校在学中に複数回受験できる「到達度テスト」の創設などについて議論した。また併せて、従来のセンター試験をこの到達度テストに統合する案を示した。オンライン版の東洋経済はその背景として次のようにまとめている。

  1. たった一回(二日間)の成績で合否を判定するという一発試験の弊害(当日の体調や問題との相性など、偶然の要素が少なくない)。
  2. 教科が増えすぎて、重箱の隅をつつくような問題も多い。
  3. 受験テクニックだけが鍛えられ、「基礎的・基本的な知識・技能や、課題解決に必要な思考力・判断力・表現力が劣ってきた」(文科省幹部)、要するに高校生の学力低下が著しい。
  4. いわゆる大学全入時代の到来とともに、推薦入試やAO入試が野放図に行われ、そもそも勉強しない高校生が増えてきた。


●東洋経済の記事の奇々怪々

しかし東洋経済の記事内容は、どうも釈然としない。上記のいずれとて、到達度テスト導入の必然性として納得できる内容はない。反論してみよう。

1への反論)たった一回とはいえ、その一回のために高校生は3年間学業を積み重ねており、膨大な量のセンター試験形式の過去問・模擬試験を経験することで問題との相性の偏差を消してきたのだから、一発試験といってもギャンブル性が高いなどとは言えない。だいたいが当日の体調悪化など、本人の管理責任の領分であり、それを含めての試験ではないのか。

2への反論)受験生は何もセンター試験の全カテゴリーにあたる29科目全てを勉強するわけではない。比較的早期の段階から、志望校や本人の科目的な相性を含めて、力を入れるべき分野を限定しているはずだ。

3への反論)知識詰め込み型と揶揄される当のセンター試験(とその前身の共通一次試験)に青春を捧げた官僚たちが「基礎的・基本的な知識・技能や、課題解決に必要な思考力・判断力・表現力が劣ってきた」などと自己反省もなくいうのはお笑い草だが、それはおいておくとしても、そもそもこの課題解決力云々をテスト形式で評価できるのだろうか。看板を代えても中身が従来のテストと変わらなければ何の意味もないのではないか。到達度テストについては、高校在学中に複数回受けられるような案が検討されているらしいが、テストは所詮確認テストに過ぎない。高校生の学力向上どのような関係があるというのか。

4への反論)これはもう、反論するまでもない。というのは、AO入試や推薦入試の弊害など従来から言われていたことで、だいたいが到達度テスト導入の問題とは別次元の問題である。極論をいうなら、これまでのセンター試験が悪いのではなく、入試とすら呼べない「偽装入試」を課してきた大学側が悪いのだ。

到達度テスト案によれば、高校生は在学中にこれを受けるチャンスが複数回与えられる。では成績評価はどうするのだろうか。例えば複数回のうちの最高得点を採用するのか、三回であれば三回分の点数の合計を用いるのか。東洋経済の記事では、一回で成績がよければ学校に来る必要がなくなり、将来的には飛び級や早期卒業の可能性もあるという。しかしこれは可能性である、というより、まさに絵に描いた餅である。

なぜなら、これは全て大学側の出方にかかっているからだ。仮に全部の到達度テストの点数の総計を採用するとなれば、テスト勉強に拘束される度合いはむしろ強まる。成績が伸びている高校生であれば、一回の試験の結果に満足するとは限らない。二回目、三回目の結果によっては、より上位のランクの大学に志望校をシフトするだろう。そもそもが、国公立大学の場合、合否の相当な部分はむしろセンター試験「後」の二次試験の出来にかかっている。

●大学教育に無関係な試験改編など無意味である

こういったことは、何もとりたてて専門家の見識を要するものではない。誰が考えても、試験を単数から複数にすることの無意味さは明らかだ。

そもそも(そもそも、という言葉を本当に、何度も使いたくなる)、誰のための高校教育、何のための大学教育かを包括的に見直すべきだろう。実際、政府の教育再生実行会議の議事録を読むと、なかなか「まともな」議論をしていて、センター試験廃案などは教育をめぐる様々な議題の一つに過ぎないことが分かる。

議事録を一瞥して興味をひかれるのは、むしろ、高校教育を大学教育との連続性でとらえるのか、それとも不連続性でとらえるかというテーマだ。つまり、高校教育というのはもっぱら、特定の大学に入るための受験テクニックを教えるに過ぎないのか、それとも高校教育とは、社会人としてまともな教養と自立心、そして道徳意識を持った人間に育て上げるための、それ自体として完結した全人的な修養過程なのかという問題である。

例えばこういう極論──極論というより「事実」がある。すなわち、中学から大学までエスカレーター式に子供が進学してゆく私立大学の場合、大事なのはいかにして、長期にわたって金を落としてくれる「顧客」である子供を「囲い込む」ことができるかということであって、そこでは学習の到達度など不問であり、場合によっては不必要ですらある。そして文科省は、そういう大学に対してもせっせと助成金を落とし続けているのだ。

さて最後に一言。私はセンター試験存続には賛成である。一度きりの試験、ということは、3年間の使い方は、それぞれの高校生の自由裁量に任せられているということだ。ある一定の学業レベルに「到達」するのが1年次だろうと3年かかろうと、本人の好きにすればいい。成果主義が跋扈する現代において、せめて中高時代ぐらいは長期的に自分の可能性を見つめる時間があってしかるべきだろう。

入谷 秀一(にゅうや しゅういち)
大阪大学大学院文学研究科
招聘研究員・兼・非常勤講師

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