日本人と韓国人はどこで性格が大きく変わったのか?

松本 徹三

否定したい人たちが如何に多かろうと、日本人と韓国人が同根である事には疑いはない。しかし、現在の両民族の性格が大きく異なったものになっており、将に正反対の傾向を持っているところも多いのも事実だ。

随分以前の事で手許に記録が残っていないが、カリフォルニアのある学者が、米国人、英国人、ドイツ人、日本人、韓国人が、通常の議論においてどういう態度を取るかを調査した報告書を読んだ事がある。そこでは、多くの項目で日本人が一方の極端、韓国人が逆側の極端で、その間に米国人、英国人、ドイツ人が様々な順番で並んでいた。調査項目は、例えば「相手の目を見て話すか?」とか「相手が喋っているのに覆いかぶせて話すか?」等々だった。


これは、明らかに、環境の違いがもたらした変化だろう。農業が一般化して国というものが出来ると、万事におおらかだった太古の時代と異なり、一つの国の住人が別の国に移り住むのは難しくなる。わずかな人数が客として迎えられる以外は、多勢の集団が武力をもって侵入するしか方法がなくなる。そうなると、島国の日本では、一旦強力な統一国家が出来ると、他の国からの大規模な侵攻はなくなる。

しかし、国が半島に位置する場合は、近くの国が強盛になると、必ずと言っていいほど侵攻を受けるのが当たり前となる。先ずは「漢」が「高句麗」を圧迫、「高句麗」はしばしば反攻して中原を窺うまでに至る事もあったが、結局は「唐」を引き入れた「新羅」に滅ぼされた。蒙古族の「元」は「統一新羅」の後継者である「高麗」に侵攻して支配下に置き、漢民族の「明」も、満州(女真)族の「清」も「李氏朝鮮」を属国にした。「李氏朝鮮」が「明」の属国だった時には、海を渡って豊臣秀吉の軍勢も侵攻してきた。

日本の場合は、古代より幾度となく戦乱があったが、同じ民族の中での支配権を巡っての戦いに過ぎなかったから、支配者が変わるだけで、農民が殺されるような事は滅多になかった。悲劇は概ね支配者の中だけの事で、一般庶民は、真面目に働いて、お上に逆らわなければ、最低限の生活は守れた。だから、多くの人たちは、安心して家業に精を出せたし、生真面目に約束を守り、集団の規律に従う事を、何よりも大切と考えるに至った。時間をかけて完璧主義に拘る余裕もあった。近代における日本の工業の成功は、ここで培われた性格や資質が大きく貢献したと考えてよいだろう。

しかし、一方では、これが日本人の「視野の狭さ」や「頑なさ」を生んだとも言える。また、外国人から見ると、このような日本人の「生真面目さ」は、一方で「日本人に対する信頼感」の源になってはいるものの、「一つ間違えば何をするか分からない不気味さ」にも通じてしまう事がある。先の大戦での「特攻隊」や「バンザイ攻撃」は、一部の外国人にこういう「不安感(恐怖心)」を植え付けた。

これに対して、半島の住人たちの場合はどうだろうか? 異民族の侵略は苛烈で情容赦がない。焼き尽くされ、奪い尽くされ、男は殺され、女子供は奴隷にされる。こうなると、交渉で戦いを避けるのが常道になる。従って、500年もの長きにわたって韓国全土を支配した李氏朝鮮は、時には耐えられないような屈辱にも耐えながら、一貫して「明」と「清」の冊封体制を受け入れ、その権威の下で自らの支配権を守ってきた。

つまり、半島の住人たち、穢・貊系の人たちや韓人たちは、それ以前の漢民族や北方騎馬民族との絶えざる摩擦に直面していた時代を含め、歴史が始まって以来の全ての時代において、常時「権謀術数」を計り巡らす必要に駆られ、或いは「面従腹背」を強いられてきたわけだ。こういう事は、普通は「悪い事」の様に受け取られがちだが、肯定的な面からみれば、これによって現在の韓国人の「国際的な視野」や「戦略的思考」、「したたかさ」や「現実主義」が培われたのだと見る事も出来る。

現在の韓国人の性格を形づくったのは、日本で言えば鎌倉時代の終わりから明治時代に至るまで続いた「李氏朝鮮」の時代の社会だったと思われる。この時代を通じての価値観は、徹底して「儒教の優等生」でありたいとする「教養主義」であり、「武よりも文を重んじる」気風であり、それらがもたらした「官僚間の因循姑息な権力闘争」であり、「孝」を「忠」以上に重んじる「厳格な男系の家父長制」と、これが生んだとも言える「恨(復讐)」の文化であり、「両班(ヤンバン)」が「賤民」と「奴婢」を支配する「格差の大きい階級社会」であり、「以小事大」、即ち、「小さいもの(国)は大きいもの(国)に仕えるのが当たり前」という考えであった。

これらの全ては、分権的な「封建制度」をベースとし、「中国」及び「儒教」の影響力が比較的希薄で、精神世界では「仏教」と「武士道」といったものが全ての価値観の頂点に立っていた日本とは、随分おもむきを異にする。

李王朝は500年も続いた王朝だったから、名君も数多くいたが、彼等は常に「徒党を組む官僚」や「閨閥」と戦わねばならなかった。韓国の不幸は、キリスト教や西洋の科学も導入した英明な国王、正祖(イサン)が若くして1800年に死に(毒殺の疑いももたれている)、その後は慶州金氏と安東金氏に代表される「閨閥による政治の私物化」が全土に深刻な腐敗と混乱を招き、この混乱が日本の幕末に当たる時期まで続いた事である。一歩早く近代化を果たした日本が、韓国の力を軽んじ、侮る事になったのも、これ故だったと思われる。

韓国でも、日本同様、当初は無謀な「攘夷」に凝り固まる人たちが多かった。その象徴が引退を翻して権力の座に返り咲いた「大院君」だった。しかし、ここでもまた不幸な巡り合わせがあった。日本では長州が馬関戦争で、薩摩が薩英戦争で、それぞれ一敗地にまみれて、近代兵器の威力を思い知ったのに対し、韓国では上陸したフランスと米国の小部隊を何とか撃退出来た事から、欧米の力への過小評価が蔓延してしまった。

ここに登場したのが、自らが推し進めた「維新」の犠牲になった「下級武士たち」の不満が鬱積していた日本だった。修好を求めにいった明治政府に対して李王朝が尊大な対応をした為に、これらの不平士族たちに職を与える為の日本国内の「征韓論」は、絶好の口実を得た。欧米の非難を恐れた明治政府の上層部が、辛うじてこれは抑えたが、ここで生まれた「反韓」「侮韓」の感情は、その後も長く後を引いた。

韓国にも「幕末の志士」のような「憂国の士」が現れ、彼等と手を組んで李王朝を倒し、欧米の侵略を許さぬ「近代化した韓国」をつくろうと夢見た日本人たちも、ある程度存在したのは事実だろう。しかし、その頃韓国の各地方で李王朝に対する反乱を起こしていたのは、困窮した農民の反乱軍でしかなかったから、こういう形での連帯はもともと無理だった。

国王が官僚機構を使って全国民を支配する中央集権の韓国と異なり、日本は封建制であり、将軍に対抗意識を持つ「外様大名」たちが相当な力を蓄えていた。しかも、彼等は「将軍より権威のある天皇」を担ぎだす事が出来た。明治維新を実現した幕末の志士たちは確かに偉大ではあったが、もし彼等が「将軍と天皇という二重構造」のない当時の韓国にいたら、とても李王朝を倒す事は出来なかっただろう。

現実問題として、当時の韓国の一般民衆は、末期的な状況にあった「清」の、そのまた属国であった李王朝の悪政に悩まされ続けていた訳だから、何れにせよ救い様のない状況下にあったのは事実だ。そして、単独ではこの状況から抜け出せなかっただろう事も事実だろう。皇帝の側近が朝鮮北部の森林資源に野心を持っていたロシアも、虎視眈々と清に取って代わろうとしていたわけだから、「日本はそれに先手を取っただけだ。その何処が悪い」と言っている日本人は今なお数多い。

しかし、この考え方は、「国の主権」とか「民族意識」というものを全く理解しようとしていない点で、根源的に間違っている。ロシアより日本のほうがまだマシだっただろうというのは、その通りだったかもしれないが、それは韓国の人たちが決める事であり、当時の韓国の主権者は李王朝だったのだから、彼等がロシアを選ぶのなら、それが主権者の選択であり、外国人がとやかく言えない事だ。

現実に、それが如何に「とても実現は望めなかった」ものだったとしても、「民族自立」の強い欲求は、当時の韓国の民衆にも当然あった。アメリカのウィルソン大統領が第一次世界大戦の末期に提唱した14ヶ条の冒頭に「民族自決」の原則が謳われていた為、これに勇気づけられた反乱が実際に各地で起こっている。だから、民衆の立場から言えば、どんな国であろうと、武力によって「民族自立の希望」を圧殺した外国は「悪い国」だと考えるのは当然の事だ。

「民族自立なんかを原則にしていたら、何時迄も貧しい国でいなければならなかった筈だ」と言って、日本の行為を正当化する人たちも未だに結構多いが、それを言うのなら、チベット人やウィグル人の「民族自立の希望」を圧殺している現在の中国を非難する事もやめねばならない。古今東西を問わず、人間は経済発展だけの為に生きているわけではないのだ。

不幸にして、当時の韓国人の「民族自決の希望」を実際に圧殺した(圧殺出来た)のは日本だけだったから、現在の韓国人が日本人に対して「あんたたちは悪い奴だったんだよ」と言うのは当然の事だし、それに対して現在の日本人が「それはそうだ。悪かった。謝るよ」と答えるべきなのも、これまた当然の事だ。それなのに、「何を言ってるんだ。もっと悪い奴がいたから守ってやっただけじゃあないか」とか「そのおかげで生活は前よりよくなった筈なのだから、文句を言うな」等と言い募っていれば、いつまでも喧嘩が続いてしまう。

何度も繰り返して申し上げている事だが、もう一度結論を言わせて頂こう。私が考えるところでは、日韓の「歴史認識」問題についての議論は、とどのつまりはこの事に尽きる。日本は、「明治維新から終戦(解放)に至までの間、日本が国として韓国人に対してやってきた事は、基本的に悪い事だった」と認め、謝罪する。それで「歴史認識」の本質的な問題は決着だ。後の問題は、厳密な史実に基づいて、個別に是々非々で議論すればよい。しかし、このような基本的な認識で先ず一致しなければ、話は何時迄も前に進まない。

それから長い年月を経た今でも、日本人は韓国人について、「『口先』と『見てくれ』ばかりの虚栄心の固まり(だから女性は『整形』ばかりしている)」「狡猾で嘘と裏切りが多く、信用出来ない」と悪口を言う。韓国人は日本人について、「視野が狭く、自分の枠に凝り固まる島国根性」「常に自己中心的で、やる事が粗野で乱暴(『倭冦』、『秀吉軍の侵略(壬辰倭乱)』、『強圧的な日韓併合』の『歴史的な三大災厄』がこの象徴)」と悪口を言う。お互いに、言われてみれば、確かにそういうところもあるが、とにかく「悪口の言い合い」ほど非生産的なものはない。

これからの日本人と韓国人は、お互いに過去の事は水に流し、悪口を言い合う事はやめ、お互いの異なった性格と、それをもたらした長い歴史的な背景を理解し合い、お互いに悪いところは改め、お互いの短所の裏面にある長所をお互いに認め合い、お互いに切磋琢磨し、共通の利益を求めて協調していくべきだ。

(追記)

ついでだから、この機会に、古代の日本と韓国の間に如何に同族性が強かったかを示す証左を、更に若干紹介しておきたい。

高句麗のトーテムは熊だったが、新羅のトーテムは鶏であり、その為に、新羅という国号が定まる以前には、この地は「鶏林」と呼ばれていた。一方、日本の鳥居は、もともと神様の使いである鳥(鶏だったかもしれない)の「止まり木」だった。日本のお祭りでは、どこでも人々は御神輿を担いで「わっしょい、わっしょい」と囃すが、この「わっしょい」は韓国語の「わっせ」(来てください)から来ているとしか考えられない。つまり、神様に「天から降りてきてこの御神輿に乗ってください」と言っている訳だ。そうでなければ、何を言っているのか見当もつかない。

古代史を語りだすと、「どちらが本家でどちらが分家」とか「どちらが進んでいてどちらが遅れていた」いうような話ばかりで盛り上がり、優劣を競いたがる人たちが今でも多いのは困ったものだ。実際には、「その頃は、韓と倭の諸民族(部族)は、海を越えて複雑に混ざり合っていた」と考えれば済む事なのに、こういう事に何時迄も拘っているのは実に滑稽と言わざるを得ない。

新羅の始祖王である赫居世(ヒョッコセ)の最高参謀で、時には赫居世と同一人物ででもあるかの様にも語られる「瓠公」は、もともと倭人で、瓠(ひょうたん)を腰につけて海を渡って来たとされているが、「この倭人は、同じ瓠(ひょうたん)に縁のある大和の葛城氏と同族で、この葛城氏は、元を質せばその昔半島から逃れてきた高句麗人を祖としている」という説もあるので、もう何が何だか分からない。

江戸時代からずっと「日本による韓国支配」を正当化する為に使われてきた「神功皇后の三韓征伐」の伝承にしても、「彼女自身が半島出身の一族に連なる人物だった」と考えないと理解不能になる。そもそも妊娠中の身で海を越えて外国まで遠征するのには、余程緊急で重要な理由があった筈であり、恐らくは「新羅との戦いで敗色濃厚だった同族の『残留倭人』或いは『伽倻人』から救援を急かれ、それ故に急遽渡海した」という事だったに違いない。お腹の中にいた赤子の父親は、半島に先に帰っていた伽倻の王族だったのかもしれない。

現在の金海周辺にあった金官伽耶国は、良質の鉄器を造っていた事で有名だが、日本に渡る水路の起点でもあり、倭人との交流(一体化)がとりわけ進んでいたと思われる。金官伽耶国は後に新羅に降伏したが、その頃は、まだその地に残留していた倭人の勢力と一緒になって、日々戦いに明け暮れており、しかも、その相手は新羅だけでなく、北から新羅に侵入してきた高句麗や、西で境界を接する百済も含まれていたのだろう。それが「三韓征伐」の伝承の起源だったのだと思う。