国政における「バランス感覚」とは何か?

松本 徹三

「バランス感覚」という言葉は、企業の経営者や管理者たちが部下を評価する時によく使う言葉だ。「あいつはまあまあ良く出来るが、バランス感覚がないからなあ」と評価されると、昇進は覚束なくなる。これに対しては「そんな事を言って次世代のリーダーを選んでいるから、日本企業の国際競争力は弱くなる一方なのだ」という批判がある。現実に、成功している企業には、強烈な個性を持った創業者が、周囲の事などはあまり気にせずに、自分の信念を貫き通しているケースが多い。


しかしながら、企業経営と国政はいささか異なる。企業経営の目標を設定する場合は、「利益を上げ、事業を拡大する」という資本主義の基本理念が概ねその根底にあり、しかも、具体的な目標とそれを実現する為の戦略は、経営者が決めれば良い事だ。それが嫌な社員は辞めればいい。しかし、国のあり方については、現在の民主主義体制においては、国民の合意によって決めなければならない。しかも、国政のトップが決めた事に反対する人たちが多かったら、「嫌ならみんな国民をやめてくれ」という訳にはいかない。

勿論、企業経営の場合でも、設定された目標を社員が好感を持って受け入れてくれるほうが望ましいのは間違いない。また、利益を上げる事が目標だと言っても、その対象が社会にとってあまりよくない事だったり、そのやり方が多くの人たちの眉を顰めさせるものだったりするのは、極力避ける必要がある。その為に、多くの企業は「社会の為」とか「消費者の為」とか「社員の幸福の為」とかいう美しい言葉を「企業理念」の中に入れている。

国政の場合は、選挙によって選ばれた政治家が物事を決定し、それを実行する事になっているのだから、選挙に際しては、それぞれの政治家は、個々の問題について自分の考えを明確にして、「それに賛同してくれた選挙民が自分に投票してくれる事によって当選する」事を目論むのが建前になっている。しかし、現実には、全ての「争点」が選挙運動の中でカバーされている訳でもないし、「争点」自体が選挙後にどんどん変わってくるのも事実だ。

今回の衆院選挙で安倍総裁の率いる自民党が圧勝し、余程大きな問題が起こって衆院が解散されない限りは、これから四年間は基本的に自民党の考える政策が実行される事になった。これには良い点と悪い点がある。

良い点は「野党の『反対の為の反対』で政策の実行が滞る事がなくなった」という点だが、悪い点は「その時点で国民の多くが反対する事でも、自民党が数で押し切ってしまう」恐れがある事だ。しかし、それ以上にもっと心配な事がある。「自民党内のコンセンサスが最大のポイントになるので、自分の支持母体である既得権者等の利益を守ろうとする各派閥が、相互に貸し借りをする事によって『なあなあの決着』を計る」という事だ。

この悪い点を防ぐ為には、国民の不断の厳しい監視が欠かせない。そして、国民の監視を助ける為には、色々な力が重ね合わされ、効率よく働く事が必要だ。

先ずは三権分立の一翼を担う法曹界であり、次に「ジャーナリズム」の力だ。(尤も、最近はネットの威力が増大しているので、これまでのジャーナリズム以上の影響力を持つ事になるかもしれない。)そして、更に言うなら、実際に物事を動かす官僚機構の中などに「正義感に燃えた人たち」がいて、その人たちが勇気を奮って「内部告発」をする事も、これからは極めて重要になってくるだろう。

しかし、日本の場合は、「法曹界」「ジャーナリズム」共に、些か心許ない。先ず「法曹界」だが、その最高権威である最高裁判所の判事の過半数が、時の政府に奉仕する法務省の出身者で構成されているのが問題だ。(この事については、昨年12月10日付の「最高裁のあり方に是非とも批判票を」と題する私のアゴラの記事で既に触れているので、今回は省略する。)

ジャーナリズムについての第一の心配は、新聞とTVを等しく支配する五大メディアが「第四権」として君臨し、世論を偏った方向に誘導する事だが、それ以上に心配なのは、彼等が売り上げ増大の為に「大衆」に迎合する事だ。これが昭和初期に日本を無謀な戦争へと駆り立てた最大の要因になった事はよく知られている。

前者については、個々のジャーナリストが全て一定の方向に偏向しているような状況は通常考えられないが、編集長又はその上にいる社長の意向により、書きたい事を書けない状況になる事は大いにあり得る。現実に、巨大メディア会社の社長の立場からすれば、「政治家との貸し借り関係を作る事ぐらいは平然とやるだけの意志と能力がなければ、とても経営の任には当たれない」という言い分もあるかもしれない。

後者については、ネットに押されて新聞の購買部数やTVの視聴率が確実に低下傾向にあることが、逆に心配の種だ。週刊誌の誌面を見ていると「大衆に迎合する」というのはどういう事なのかがよく分かるが、誇り高い大新聞であっても、窮すればどうなるかは分ったものではない。部数が少なく規模のメリットが取れない地方新聞が先ずは真っ先に大衆迎合的になると思うが、その動きは遠からず全国紙にも波及するだろう。

ここで活躍すべきがネットなのだが、この世界はレセ・フェールの世界なので、先を読むのが難しい。ネット社会が引き起こした「アラブの春」は、「独裁政権を倒す」という偉業を果たしたが、その後はプラス面よりマイナス面の方が目立ち、国民の生活は、残念ながら独裁政権の時よりもずっと悪くなっている。ネット上の言論は、権威を破壊するには向いているが、新たな体制を作り出すにはどうもあまり向いていないようなのが、大変気になるところだ。

ところで、先に政治家と企業経営者の違いについて少し触れたが、共通のところもある。それはマーケティング(販売)能力の重要性である。どんなに素晴らしい商品を作り出しても、売れなければ企業は立ち行かない。そして、ものを売る為には、単純明快な言葉で、買い手(多くの場合は一般消費者)の心を一気に掴む事が何よりも必要だ。

言い換えれば、何事も単純に言い切って、力強くアジる事だ。どんな商品にも弱点やマイナス面はあるが、そんな事をぐずぐず言っていたら、買い手は迷ってしまう。商売人は普通はそんな事はしないのだから、人気商売の政治家もこれに倣うのは当然だろう。しかし、こんなやり方は、本来は消費者や国民の為にはならない事だ。

急成長しているネットの世界を見ると、確かに情報量が増え、通常のジャーナリストが取り上げないような視点から物事を論じる「見識のあるブロガー」なども増えているが、全体としてみると、やはり、論証は二の次、三の次にして、「一つの考えを強く言い切ってしまう」議論の方が人気があり、アクセスも集まる傾向が見て取れる。

アジる記事は当然人気を呼ぶ。丁寧に「正確さ」と「公平さ」を追究しようとすると、自分の論点にも段々疑念が出てきて、舌鋒が鈍るが、始めからアジる事を目的にしていれば、何の迷いもなく、従って舌鋒は益々鋭くなるからだ。大抵の人は、色々と考えるのは面倒だから、当然こういう記事は人気を呼び、次々に拡散していく。ネットの場合は、発信のハードルがこれまでと比べれば格段に低いので、そのうちに、このような「分かりやすい議論」を「自分の考え」として、大いに吹聴する人も出てくる。

このような議論の特徴は、「先ず結論を決めて、それを正当化する様に論理を組み立てていく」事だ。従って、その論理構成に矛盾するような事実は、何の躊躇もなく切り捨ててしまう。「相手の立場に立って考え直してみる」などいう考えは生まれるべくもない。

レベルの低い人たちの場合は、議論しているうちに自分でも興奮してきて、反対する人たちを「馬鹿」とか「国賊」とか呼んで罵倒し、そのうちにもう何が何だか分からなくなってしまう。しかし、その一方で、良識ある人たちがこういう議論に巻き込まれるのを嫌って押し黙ってしまうと、この様な低レベルの議論が、ネット上ではそれなりに市民権を確立していってしまうから怖い。

そういう事を深く懸念していた折に、ニューヨークに住んでいる友人の北村隆司さんから、私は自分の心の琴線に強く響く言葉を聞いた。それは、米国の放送界の巨人であるFred Friendly教授が語ったという「物事を決める苦悩を最大化する事こそが重要であり、この苦悩から逃れる唯一の道は考える事だ」という趣旨の言葉だ。

「そうか、分かっている人は分かっているのだ」と私は思い、北村さんに、この言葉に象徴されるような「米国のジャーナリズムのまともさ」と、こういう考えが受け入れられる「米国社会の健全さ」について、是非とも一連の記事をアゴラに掲載してほしいと頼んだ。

「米国の強み:権力と民意のチェック・アンド・バランス」と題する11月6日付の北村さんの記事は、この第一弾だと理解している。今後もこの続きがあり、Fred Friendly教授の作ったTV番組の紹介もある事を期待している。

私の考えは明快だ。このようなアプローチこそが、現在の日本に最も欠落しているものだから、是非とも「米国でのこのような動き」に倣って行くべきだという事だ。「日本文化の粋は簡潔さだ」などと言って悦に入っているわけにはいかない。米国に倣って、複雑な玉虫色の問題を、色々な立場から丁寧に眺め直し、結論を急がず、多くの人たちの合意が得られるような努力を重ねるべきだ。

「税制」「金融政策(とりわけ出口戦略のタイミング)」「TPPへの取り組み(農業政策を含む)」「成長政策(産業政策と規制緩和策を含む)」「教育問題」「雇用問題(正規労働者と非正規労働者の格差の問題等々を含む)」「社会保障のあり方(高齢化対策を含む)」「エネルギー政策(とりわけ原発問題-恐らくこれが最も難しい問題かもしれない)」「外交問題(とりわけ近隣外交の問題)」「安全保障の問題」等々、我々の前には、国民のコンセンサスが容易には取れそうにない、数多くの難しい問題が控えている。

これらの全ての問題に内包されている「デリケートさ(見方を変えると全く異なった結論になるという事)」を理解し、「バランスの取れた公正な判断」に至る道筋を考えよう。先ずは「事実関係」が誰の目にも明らかになる様にし、その上に立って、公正で論理の通った議論を丁寧に積み上げ、多くの人たちの異なった立場を理解し、問答無用の決定を阻止し、自らアジらず、アジる人たちを糾弾し、悪口の応酬を自粛し、必要があれば「ぎりぎりの妥協」も厭わず、長期的な視野に立って「最大多数の最大幸福」が実現出来るよう、みんなで努力すべきだ。

そうしなければ、考えの異なる人たちの間での対立はいつまでも解けず、国の力はどんどん弱くなっていってしまうだろう。