福島・南相馬、復興の動きを聞く【原発事故3年】

GEPR

石井孝明 ジャーナリスト

福島県南相馬市の現地の声を伝えたい。

ここは事故を起こした東京電力福島第一原発の約20キロメートル以遠の北にある。震災前に約7万人の人がいたが、2月末時点で、約6万4000人まで減少。震災では、地震、津波で1032人の方が死者・行方不明者が出ている。その上に、原子力災害が重なった。

複合災害を乗り越えて地域を再生しようと、意欲と志を持つ人々が、活動している。そうした地域リーダーの一人、南相馬市の箱崎亮三さん(写真)に話をうかがった。

001


箱崎さんは現在54歳。家業の箱崎林業の社長をしながら、南相馬市で震災前から実践まちづくりというNPOを運営していた。震災・原発事故後は同市の有志と南相馬除染研究所を立ち上げ、同市内の除染、放射線の測定を自主的に行っている。

「土地の力」が消えた悲しみ

--3年が経過して事故で「失った」と、心に残るものは何でしょうか。

失ってから、初めて大切さの分かるものが多いのですね。大きなものは「土地の力」がなくなったことです。私は林業ですが、山は今、まったく使えません。どのような形で放射性物質を取り除くかも決まっていません。

南相馬は土地が安く、自然が豊かでした。月6-7万円出し、時に増額して返済すれば、10数年で家が持てました。原発事故前は、海産物も、山菜も、農作物も地産地消で食べられました。夏になれば海でも、川でも泳げたのです。それが今、できなくなってしまいました。

––町を歩くと、傷跡は消えているように思えます。住宅街の放射線量は、多くの場所で毎時0・2マイクロシーベルト(μSv)と、日本の他地域よりやや高い程度でした。

いろんなことが同時に進行しています。表面的には復興が進んでいるように見えるのですが、そうでもないのです。

昼に食事にいくと、外食チェーンが繁盛しています。東電から賠償金が入っているのに、仕事がない人、できない人がたくさんいるのです。そうした中高年がグループで食べに来て、そこで時間をつぶすのです。これは仕方がない半面、働かないことは、いいことではないでしょう。その人の心にとっても、町にとってもです。

また人の流れが変わっています。復興、除染のために新しい人が町に入ってきています。しかし、特に20代後半から30代の若い子育て世代を中心に、ここから人がいなくなっています。

簡単に消えない、放射能の心理的な影響

–放射能への恐怖は人々に、残っているのでしょうか。

多くの人は落ち着いています。ただ除染すれば問題ないだろうという人の考えがエスカレートすることはあまりありません。私もそうです。しかし危険だと思ってしまうと、その方向で主張が過激になってしまう面があります。

そして過激になった人は、後から引けなくなってしまうのです。「放射能災害に苦しんだ南相馬の住民」は、福島が危険なんだと主張したい人にとっては、都合の良い貴重な存在になるわけです。そうした人につれられ、県外の講演会とか招待され、メディアやYouTubeに出てスポットライトを浴びると、過激なことを言い続ける状況に追い込まれてしまうのです。

–「若い世代が移住した」のは放射能の影響なのでしょうか。

理由は複合的で、「放射能の恐怖」というより「社会現象」と言えるでしょう。いろんな問題が重なっているのです。

子育て世代で一番目立つのが、三世代同居家族で家業を継いだ人です。仕事ができなくなり、移住をした場所が、住みやすくて仕事があれば、戻る理由はありません。これは若い世代を引き付ける地域競争の結果です。南相馬は震災前から、どの地方も苦しんでいるように、若年世代の流失傾向がありました。震災と原子力災害はそれを加速させました。

南相馬に残る決断をした人は、安全な情報に注目しがちです。一方で去った人は、帰らない理由を探しがちです。そこで、その理由に放射能を上げる人がいます。実はそうした人も、自分で健康被害は起こると思っていないことがあるのですが。

また家庭の事情はさまざまです。震災の影響による失業などで、飲酒とか、離婚の問題も出ています。ただし心理的な悪影響は、原発の近くにあり、地域全体で避難をした双葉郡の方が深刻なようです。

家庭の事情は千差万別です。「怖い」という単純な答えでなく、それぞれの人の事情を考え、放射能問題を説明し、考えなければなければならないと思うのです。

新しい付加価値づくりによる再建

--原発について、どのように思いますか。

もちろん不信感は持ちます。けれども原発の是非という問題も大切でしょうが、目の前にやることがたくさんあるわけです。私たちの除染活動では、原発の賛成反対を強く打ち出さずに、正確な情報を知ること、そして考えることを目的にしました。

私は小学校のころ、できたばかりの福島第一原発を遠足で見学しました。そして「鉄腕アトムが飛んでたよ」なんて感想をいうと、親や祖母が困った顔をして、「とっても危険なもんだ」と言っていたことを思い出します。その後でこの地域の人は大半が、その危険性を忘れていたんですよ。そうした「任せること」が、いけないことだとしみじみ思っています。

–物の面での再建は大変ですね。

そうです。震災前と同じ「物差し」を使っても、今は測れないぐらい落ち込んでしまいました。私が震災の前から南相馬のまちづくりを行っていたのは、その当時からこのままではこの町が何十年か衰退していくという問題意識のためでした。ところがそんなときに、震災と原子力災害が一緒に起こったわけです。何十年先かに訪れるという危機が数日でやってきて、状況が一変したわけです。

私は測り方、そして物差しを変えなければならないと思っています。例えばの話ですが、今まで除草剤で枯らしていた雑草をよく見ると美しい花を咲かせるので、それを堀出して植え替え、テーブルに飾るなんてことはあるでしょう。そうした、大切なものを南相馬で発見して、大切に育てること、それに価値を見つけることが必要と考えています。

失ったものは大きいのですが、それをバネにして未来を考えなければ。そうしなければ、人は戻ってこないし、町は再建されないですよ。「先進的なことをやるぞ」と、背伸びをし、他の場所より魅力を増す付加価値をつくらなければなりません。

再エネによる新しい復興の芽

–再建には何が必要ですか。

山でも、農地でも、除染を丁寧に行えば、放射線量は減ります。自然のままではなかなか動かないのです。必要な場所の除染が必要です。

そして働くということを大切にしてほしい。補償して禁止するのではなく、農家でも作物を作って検査をしっかりするとか、林業でも出荷制限を解いていくとか。お金だけの復興は、人の心も地域もおかしくしていきます。物に触れ、実際に働くことをしないと、農業も林業もダメになっていきます。

国も県もできることのメニューを揃えていますし、その努力をありがたいと思います。ですが、もう少し、やる気のある人が自由に動ける状況をつくってほしいです。

–地域主導の取り組みが必要ということですね。

はい。一つの政策は多くの人がかかわって決まることは当然です。しかし政策を動かす実際のハンドルは、その政策の影響を受ける人、つまり放射能事故対策では、地域の人が握っていていいと思います。専門家に任せっぱなしにしたから、こんな事故が起こってしまったのですからね。

そして3年経過して、その理屈は多くの人が分かっていると思います。

私が、南相馬に残って生活し続けるのは、原子力災害の実状をつぶさに見届け続け、その「生き証人」という立場から、今の社会に刻めることがあると思うためです。そして、その営みが未来には歴史になるし、自分の子供たちに伝えことになると思うためです。「できることをしない」「責任を果たさず見届けない」というものは、とても残念だし、もったいないと思うのです。

今期待するのが再生エネルギーです。洋上風力とか、大規模太陽光とか、新しい研究プロジェクトが浜通りでいろいろ企画されています。原子力発電のために混乱した福島で、新しいエネルギーが始まったというのは、すばらしいことではないですか。

福島を、新しい形で、そしてよくやったと言われる形で、次の世代に残したいです。

*  *  *

原発事故をめぐる情報で不思議に思うことは、恐怖を強調する情報の多さだ。中には、「福島に人は住めない」などというデマ、そして福島の同胞への誹謗とも言える情報が流された。

原子力災害の被災地には、人々の生活がある。そして、箱崎さんのように、落ち着き、高い見識を持って、状況に向き合う地域リーダーもいる。

意欲を持ち、活動する人々を支えることが、復興で必要なのではないか。被災地以外の人のできることは、遠く離れた場所の机上で空論を戦わせること、おかしな情報を流して邪魔をすることではない。

石井孝明 ジャーナリスト
メール:[email protected]
ツイッター:@ishiitakaaki