笑って済ませられない『美味しんぼ』騒動

北村 隆司

池田信夫さんの「『美味しんぼ』は何も証明していない」を読んで、ある高名な宗教学者が私に教えて呉れた「事実には科学的事実のように再現性を必要とする事実と、宗教上の奇跡のように信じる事で事実となる物がある」と言う言葉を思い出した。


『美味しんぼ』は、一見科学的な事実のように見せながら、実は実証性も普遍性も全く無い個人的意見や体験を事実のように見せかけた「似非本」で、もしこれが意図的なら「事実歪曲」、無知に依るものであれば「事実誤認」を基にした作品だと言える。

言論、表現、報道の自由は相当の対価を払っても守らなければならないが、その自由の対象に「事実の歪曲」や「事実誤認」も含めるべきか否かは、にわかに結論の出せない微妙な問題である。

この微妙さに乗じたのか、自由の名の下に売らんかな(「ウランかな? ではない)の金権主義が跋扈し、無責任かつ不正確な報道・出版をする事は、多くの人に精神的・物質的な被害(いわゆる風評被害)を与えるばかりである。
しかも悪い事に、被害者を出すくらいの極端な内容でないと出版物が売れないのが日本の現状だからややこしい。

それでも日本の新聞の自由度がOECD加盟国(先進国)の中では最下位の59位だと言う事実は、日本の自由度が未だ充分ではないのか、自由はあるがその質が悪いのかいずれかであろう。

1830年代に世界で最も進んでいた米国の民主主義を学んでくるようにフランス政府から命じられた当時26歳の天才的な思想家アレクシ・ド・トクヴィルは、近代民主主義と切っても切り離せない自由とその質が、「国家の品格」に及ぼす影響について調べて米国民主主義の自由への執着の強さに驚いた彼は、知識の氾濫と行過ぎた報道の自由は、人並み優れた教育と知力に恵まれた人々が二つの道の中から、責任ある知的人物グループ (真の知的エリート)の仲間に入り、社会が直面する困難で重要な諸問題の解決策を捜し求める道か、知力を使って金儲けに走る道のどちらかを選択するようになると警告した。

日本では「知」を金儲けや自己の権威づけに利用する人々を「学商」、政治的権限や利嫌の拡大に使う人を「政商」と呼ぶ造語があるくらいだから、トクヴィルの予見は今の日本にも通ずる。

さしずめ、東京大学で量子力学を専攻した「美味しんぼ」の原作者の雁屋 哲氏は「学商」、東京工業大学理学部応用物理学科を卒業し、専門家より「原発」に精通していると自負する菅直人元首相は「政商」に当たるのであろう。

トクヴィルはまた、最近の日本の世相を当時から予見していたとさえ思える「質の悪い報道の自由の氾濫は、賢人の判断が無知な者の偏見よりも下位に置かれる社会を生み、民主主義の破壊に繋がる」と言う警告も発している。

彼が米国各地を視察した後に、31歳で書いた名著『アメリカの民主主義』の中で「アメリカの民主制度は、識者 (インテリ)とメディアの質が劣化すると(1)世論による専制政治 (2)多数派による暴政 (3)知的自由の欠如 といった形で悪化し、その結果政権の評判は落ち、政治家の資質や学問も最低のレベルに落ち、アメリカの民主制度は崩壊する危険がある」と、今から180年も前から、現在の米国の世相を正確に予知した識見には舌を巻くしかない。

「学商」「政商」の氾濫への警告と言えば、数々の奇行の持ち主としても、文化勲章を受章した数学者としても高名な故岡潔教授が2006年に発刊した随筆集『春宵十話』の文庫版の解説欄に、同じく文化勲章の受章者で東大総長や文部大臣を歴任した物理学者の有馬朗人博士が、こんな一文を寄せている。

一芸に達した人々の著書を読むのは楽しい。岡先生の本もそうだが、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹、朝永振一郎、数学のフィールズ章、文化勲章を受けた小平邦彦等々の人々の、専門を越えた話、教育論などとても参考になり、読んで楽しい。しかしそこまで一芸に達しない人々が、単に大学の教授であるくらいで、専門を越えてさまざまな述べる意見にはあまり賛成しないことが多い。これらの人々は先ず自分の専門で十分認められる仕事をすべきで、書くならば自分の専門についての一般向けの本を書くべきであろう。このことは大いに必要である。
しかし自分の専門でない分野について述べる時は、客観的データを中心にできるだけ主観を排して、客観的な論を展開すべきであると思う。
又積極的に意見を言いたい時は、科学者であるとか数学者であるとかという肩書を捨てて、一般人の立場で書くべきであると考えている。

これが2005年に発刊され、大ベストセラーになった『国家の品格』の著者の藤原正彦氏を指している事は明らかだが、有馬先生が心配されているのは、藤原氏が専門領域では殆ど影響力が無くとも、「国家の品格」のような専門領域外では、肩書きの助けもあり、事実でない事も世間に広がる事を懸念されたのであろう事は良く理解できる。

こうした事を考えると、池田さんの記事で気になるのは「そもそも単なる漫画であり、フィクションである。」と相手にする価値がないと言う意味で『美味しんぼ』を軽く扱っておられる事である。

現実は池田さんの希望とは反対に、面白おかしく虚実を入り混ぜた流行本が風評被害を生み、日本人の「民度を下げる効果は、売れない立派な書物が日本の民度を上げる効果より遙かに大きい事である。

双葉町の戸川克隆前町長が「毎日鼻血が出て、特に朝がひどい」と言うのは自由だが、放射能と鼻血の間に直接的な因果関係があると言う証明も無しに「福島は危ない」と結論つけることは「虚偽か「誤解」のどちらかであり、「福島を2年間取材して分かった事実をありのままに描いた」と主張したと言う雁屋哲さんは、2年間の取材結果と「事実」との因果関係を示せなければ「学商」とか「カルトの首領」と呼ばれても仕方がない。

また、漫画出版社の小学館は、「専門家の意見と自社の見解をまとめた特殊記事を19日号に掲載する」と発表したそうだが、これは順序が逆で、真偽に問題がありそうな内容の著作は、出版するの前にその真偽を確かめる努力をするのが世界の常識であり、編集権と出版権を握る出版社の最低の義務である。

この基本動作も出来ないなら、今からでも遅くないから「メディアの質の劣化が民主制度の崩壊を呼ぶと180年前に指摘したトクヴィルの『アメリカの民主主義』を読み直し、行き過ぎた金権主義による国家、国民の被害の大きさを認識して欲しい。

今回の『美味しんぼ』騒動は、日本をカルト国家にしないためにも、笑って済ませられる問題ではないと考えた。

2014年5月16日
北村 隆司