ハンサムな「首相」と行動的な「牧師」 --- 長谷川 良

2014年12月06日 15:00

12月25日、東欧のルーマニア民主革命25年目を迎える。11月に入ってからこのコラム欄で不定期だが「旧東欧の民主革命25年」に関連した記事を掲載してきたが、今回はその最後として、ルーマニアの民主革命の思い出を書く。革命直後に会見した2人の人物を紹介する。

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▲ロマン首相との会見後の記念写真(1990年7月、ルーマニア・ブカレストで)


チェコスロバキア、ポーランド、ハンガリーの民主化運動とは違い、ルーマニア革命ではチャウシェスク大統領夫妻が1989年12月25日、公開処刑された。北朝鮮の故金日成主席は同大統領夫妻の処刑シーンをテレビで見て震え上がったといわれている。

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▲ルーマニア革命の英雄、テケシュ牧師と(訪問先のハンガリー・ブタペストで、1990年2月)

チャウシェスク大統領の処刑7カ月後、当方はブカレスクの首相官邸でぺトレ・ロマン首相と単独会見した。同首相はチャウシェスク大統領処刑の翌日(1989年12月26日)、首相に任命され、1991年10月1日までその職を務めた。当時、映画俳優と間違えられるほどハンサムな政治家として国民の間で人気が高かった。独裁者処刑という革命の暗いイメージを一掃するうえでもハンサムな首相の登場は国民に歓迎されたものだ。

会見後の記念写真を見ると平和な雰囲気が感じられるかもしれないが、実際はそうではなかった。革命から半年以上経過していたが、首相執務室前には機関銃を構えた兵士が立ち、ブカレスト官邸前には戦車が待機していた。

以下、同首相との会見の一部を紹介する。ロマン首相は会見の中で海部俊樹首相(当時)のルーマニア訪問を要請した。

──ルーマニアの民主化テンポが遅いという批判が西側では聞かれる。

「私はルーマニアの経済改革がポーランドのショック療法に負けないほど、急激な改革であると自負している。チャウシェスク前政権が長年実施してきた経済政策は完全な指令経済、計画経済であり、市場経済原理をまったく無視したものだった。新政権は過去の経済的遺産と戦いながらも、とにかく市場経済システムの導入に踏み切った。市場経済への急速な移行は新政権の使命だ」

ルーマニアの民主革命は首都ブカレストから始まったのではなく、 トランシルバニア地方のチミシュアラ市キリスト教改革派教会ラスロ・テケシュ牧師が起爆剤となったことはまだ記憶に新しい。同国の最大少数民族マジャール人弾圧政策に抗議した牧師は“ルーマニアの英雄”と呼ばれた。

革命2カ月後、ハンガリーのブタペストを訪問中の牧師と会見したが、穏やかな聖職者というより、24年間君臨していた独裁者を追放した行動的な男性といった印象を与えた。以下、当方とテケシュ牧師のインタビュー(1990年2月、ブタペストで)の一部を引用する。

──秘密警察が全国を監視している中で、牧師は生命の危険を省みず立ち上がり、民主革命の起爆剤となったが、その原動力は何か。

「キリスト者としての信仰と、不義なものに対して逃避してはならないという確信だ。多くの国民にとっても、人間として自由でありたいという願いは、命を失うかもしれない恐れより強かった」、「ルーマニア革命は原則的には民主主義のための反乱だったが、民主主義が何であるかを知っている国民はいなかった」

チャウシェスク大統領がまだ君臨していた時代、当方はブカレストを訪問したことがある。市内を案内してくれたタクシーの運転手が「結婚しているが、子供は産まない。生まれる子供が可哀想だからだ」と答えたことを今でも鮮明に覚えている。

民主革命から25年がまもなく経過する。ルーマニアで先月16日、大統領選の決選投票が行われ、中道左派の中部シビウ市長のクラウス・ヨハニス氏(55)が対抗候補ポンタ首相を破り、当選したばかりだ。同国は今日、欧州連合(EU)加盟国であり、北大西洋条約機構(NATO)のメンバーだ。国民経済は依然、多くの課題を抱えている。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年12月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。


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