残業代が長時間労働の抑制になるという幻想

川嶋 英明

ホワイトカラーエグゼンプションの反対キャンペーンで割りとお決まりのパターンは、過労死や自殺など何かしらの悲劇的な労務事件を取り上げ、悲惨さを煽るためにその当事者のコメントが載っているというもの。ようは残業代がゼロになれば、使用者に対する長時間労働への歯止めがなくなり、こうした悲劇的な事件が多発するだろう、というわけです。でも、本当にそうなのでしょうか?


仮に日本の約3200人の労働基準監督官たちの尽力により、全国約380万の事業所すべてに対して残業代の取り締まりができたとしたらどうでしょう。その結果、現れる世界は残業が行われれば労働者に必ず残業代が支払われる世界であり、ようするに残業すればするほど労働者からすれば給与が増える世界です。つまり、労働者が長時間労働を行う上で大きなインセンティブのある世界ともいえるわけです。もちろん、会社としては残業代はペナルティのようなもなので、人件費を下げるために長時間労働をさせないよう取り組むところもあるでしょうが、労働者へのインセンティブと会社へのペナルティが綱引きする残業代という制度にどこまで長時間労働の歯止めとなる力があるかは疑問符がつきます。

また、神戸大学の大内伸哉教授著「労働時間制度改革(中央経済社)」によると、そもそも日本よりも労働者の平均労働時間の短い欧州の各国では残業代が長時間労働の抑制の中心的な役割を担っていないとされており、事実、EUの労働時間指令では法定時間外に対する残業代の支払いを各国に義務として課していません。

労働時間制度改革
大内伸哉
中央経済社
2015-02-19


代わりに、欧州では法定内の変形労働時間制を主だった手続きなしで広く認める一方、労働時間に絶対的な上限を定めています。変形労働時間制を行うのに煩雑な手続きが必要ないので業務の繁閑に対応しやすく、また、労働時間に法律上の絶対的な上限があり、例外的にその上限を超える場合の理由もかなり限定されているため、国も取り締まりを行いやすいわけです。

一方、日本では1日8時間1週40時間という法定労働時間が定められていますが、これはあくまで原則的な上限に過ぎない上、変形労働時間制についてもいちいち監督署に届出が必要となります。しかも、36協定を締結し特別条項さえつければ理由の如何にかかわらず、会社はいくらでも働かせ放題となります。36協定には免罰効果があるので、これに対して労働基準監督官にできる取り締まりはせいぜいもっと残業を減らしなさいと指導を行うくらいです。

これは未払い残業に対する取り締まりについても同様で、未払い残業の支払い命令を出せる権限がなく、労働基準監督制度の目的上、逮捕・送検も簡単にできない労働基準監督官にできることは法的強制力のない行政指導に限られます。(この点については過去に国会内閣の答弁書で明示されていますが、越権的にそうした支払い命令を出す監督官は今でもいるようです)。そもそも労働基準監督官がいくら未払い残業の取り締まりを行っても相手が、残業代ならいくらでも払うから長時間労働して欲しい、というカルチャーの会社では長時間労働の抑制効果は生まれません。

冒頭のホワイトカラーエグゼンプション反対キャンペーンに話を戻すと、ホワイトカラーエグゼンプションへの反対論には大きく分けて2つあり、1つは長時間労働への歯止めがなくなり労働者の健康被害が激増するだろうという懸念、もう1つは残業代という稼ぎがなくなることへの不満です。しかし、前者については残業代によって期待できる効果はかなり限定的で、しかも、その本丸は36協定のあり方の問題にあるのは明らかです。また、後者については残業代という稼ぎがないと生活が成り立たない人が多いのであれば、それはもう日本の貧困化の問題でしょう。

なんにせよ、ホワイトカラーエグゼンプションに反対する人の多くは残業代にあまりに多くのことを期待しすぎている気がします。ホワイトカラーエグゼンプションの本質は、あくまで労働時間と生産量との間に相関関係のない職務や業種から、賃金と労働時間の関係を完全に切り離すことで、労務の現場に存在するいくつかの矛盾(裁量労働なのに休日手当や深夜手当が発生する、昼間おしゃべりをして5時から本気を出す社員への残業代など)を解消することにあり、よく主張される成果型賃金というのはその付属的なものに過ぎません。

社会保険労務士 川嶋英明