聖トーマスに学ぶ「疑い」の哲学 --- 長谷川 良

2015年04月22日 10:27

聖トーマスをご存知だろうか。キリスト教会ではイエスの使徒の一人、トーマスは疑い深い人間のシンボルのように受け取られてきた。「ヨハネによる福音書」によると、トーマスは復活したイエスに出会った時、イエスが本物かを先ず確認しようとした。イエスのわき腹の傷に自分の手を差し込んで、その身体を確かめている。イエスはトーマスの求めに応じたが、「見ないで信じる者は、さいわいである」と述べている。だから、教会で疑い深い信者がいたら、「君は聖トーマスのようだね」といってからかう。


その疑い深いトーマスをフランシスコ法王は12日、サン・ピエトロ広場の説教の中で「トーマスに大きな共感を感じる」と述べ、その理由を説明している。

「トーマスは復活したイエスが十字架で亡くなられた自分の愛する主なのかを確かめたかった。そのため、復活イエスに手を差し伸べ、十字架の痕跡を確認しようとした。そして復活イエスだと分かると、『私の主よ』と叫び、神を称えている。トーマスはイエスの復活の意味を誰よりも理解していたのだ」という。

カトリック教会では、敬虔な信者はイエスの復活を確認する必要はなく、ただそれを信じればいいと考える。しかし、フランシスコ法王は、聖トーマスの願いに嫌な顔せずに受け入れたイエスのやさしさとその復活イエスに感動した聖トーマスに共感を覚えると告白しているのだ。フランシスコ法王による聖トーマスの名誉回復だ。ちなみに、正教会ではトーマスを「フォマ」と呼び、「研究熱心なフォマ」と評価し、復活祭後の日曜日を「フォマの日」としている。

ところで、「疑い」は本来、「信仰」の反対を意味するものではない。信じたいがゆえに疑い、確認しようとする。ドイツの小説家ヘルマン・ヘッセはその著「クリストフ・シュレンブフの追悼」の中で、「信仰と懐疑とはお互いに相応ずる。それはお互いに補い合う。懐疑のないところに真の信仰はない」と述べているほどだ。

情報社会に生きる現代人は一般的に疑い深い。新しい考え、情報が出てきた場合、最初からそれを信じる者は少なく、先ず疑い始める。そして、その「疑い」は信じるためというより、その「疑い」を正当化するために疑うことがほとんどだ。その点、聖トーマスの「疑い」とは明らかに違う。

現代人には不可知論者が多い(「欧州社会で広がる不可知論」2010年2月2日参考)。無神論者とは違い、神の存在を否定しないが、信じない。その理由は神の存在が実証できないからだ。そして不可知論者はいつまでも疑い続ける。彼らは次第に、信じることが敗北を意味すると感じだす。だから、不可知論者の「疑い」が信仰に変ることは稀だ。「知識とともに疑いが強まる」といった独文豪ゲーテの言葉を思い出す。

なお、「ヨハネの黙示録」第3章には、「あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、生ぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」という聖句がある。不可知論者は生ぬるい状況と例えることができるかもしれない。その点、無神論者は神がいないと確信しているから、冷たいがそこには「疑い」がない。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年4月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。


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