吾日に吾が身を三省す

ビジネスを制するは究極の所、人間力です。故に私達は絶えずそれを高めるべく、学んで行かねばなりません。之は先月29日、『修身斉家治国平天下』というブログで述べたことであります。


論語』の「衛霊公第十五の三十九」に、「有教無類」すなわち「教えありて類(たぐい)なし…教育によって人は誰でも立派になれる」という孔子の言があります。あるいは同じく『論語』には、「性(せい)、相近し。習えば、相遠し」(陽貨第十七の二)という似たような彼の言葉もありますが、結局人間の差を生むは学問・修養であり、それらに対する努力だと思います。

持って生まれたものが、その人の人間力ではありません。それは教えに従い学んで行く中で、強化できるものなのです。一つには「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」と『徒然草』にあるように、目の前で師と触れ合い師の呼吸を感ずる状況において師の謦咳に接するとか、偉人が残した書物を読込みそこから様々な教えを得て血肉化して行くといったことです。

世に「独学」を推奨する向きも一部ありますが、総じて言えば程度の問題であるものの独学で達する所など所詮知れたものです。やはり人類の英知に学ぶことで独自の守破離の世界、つまり「守―指導者の教えを忠実に守り、聞き、模倣する段階」、「破―指導者の教えを守るだけでなく、自分の考えや工夫を模索し試みる段階」、「離―指導者から離れ自分自身の形を作る段階」に入って行くべきだと思います。

では、学べば直ぐに人間力が高まるかと言えば、実はそれだけでは足りません。学んで後に考えねばなりません。『論語』の有名な言葉に、「学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」(為政第二の十五)というのがあります。孔子は「学んでも自分で考えなければ、茫漠とした中に陥ってしまう。空想だけして学ばなければ、誤って不正の道に入ってしまう」というのです。

あるいは同じく彼の言に、「吾(われ)嘗て終日食らわず、終夜寝(い)ねず、以て思う。益なし。学ぶに如(し)かざるなり」(衛霊公第十五の三十一)ともありますが、これらの言葉は学ぶことは必要不可欠であり、併せて思索をすることが大事だと教えています。そして此の思索の中に「自反」あるいは「自省」という要素、即ち自らを省みることがなくてはならないと思っています。

『論語』の「学而第一の四」で、曾子は「吾(われ)日に吾が身を三省(さんせい)す」と言っています。此の「三省する」とは日に三度自分を反省するではなく、学んだ事柄を自分の日常に活かしているかと何度も反省することです。それでなくては本物にはなり得ません。学んで反省し活かして行くという繰り返しの中で、人間は成長して行くことが出来るわけです。換言すれば、それが人間力を高めることに繋がって行くのです。

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