中間管理職が日米戦争を決めた 『昭和陸軍全史3』



歴史は繰り返すが、同じ失敗が再現されることはない。「安倍首相が安保法制で戦争への道を開く」などという話は、誤ったアナロジーである。それは本書を最後とする3巻シリーズで帝国陸軍の歴史をくわしくたどれば、誰でもわかるだろう。そこにみられる本質的な問題は、日本の組織に遍在する中心のない構造である。

これは明治憲法の欠陥にも原因がある。そこでは天皇の下に内閣と各省が並列にぶら下がり、陸海軍の統帥権も独立のタコツボ構造がとられたため、全員が決定権をもつと同時に全員が拒否権をもち、内閣は何も決められない。

陸軍に何の戦略もなかったわけではない。本書の主人公、武藤章は1939年に軍務局長に就任してから、彼なりの情勢判断にもとづいて戦争を進めていた。彼は満州から日中戦争に戦線を拡大した元凶として批判されるが、来るべき対ソ戦に備えるため、中国から南方に「自給体制」を築く戦略があったのだ。

しかし南方への戦線拡大でイギリスとの対立が強まり、アメリカが石油の禁輸などの制裁をとると、参謀本部の強硬派の発言力が強まった。その急先鋒が作戦部長の田中新一で、彼は武藤と陸士の同期でライバル意識が強く、参謀本部は陸軍省と同格だったため、しばしばどなり合いの喧嘩をしたという。

武藤は来るべき総力戦が国力の勝負であることを認識していたため、対米戦争は避けようとしたが、前線の将校が撤兵拒否したため、外交交渉の余地がなくなった。田中は国力に差があるからこそアメリカの戦争準備が整っていないうちに短期決戦すべきだと主張し、参謀本部は強硬論に傾斜していった。

東條陸相も日米開戦には消極的だったが、アメリカの撤兵要求を「ここで引き下がっては英霊に申し訳が立たない」と拒否したため、引っ込みがつかなくなった。こうして陸軍内でも開戦派の勢いが強まり、1941年9月の御前会議で日米開戦の方針が決まったが、近衛首相は何も発言しなかった。

その後も武藤は木戸幸一などとともに外交交渉の道をさぐり、近衛は「戦争には自信がない」といったが、東條に「それは御前会議でいうことだ」と一喝されて政権を投げ出した。最後まで抵抗した海軍も、嶋田海相が「最近の空気よりすれば大勢を動かすことは難しい」と開戦に賛成した。

こうみると日本には侵略戦争の一貫した戦略はなく、指導者は誰もが日米戦争に勝てないことを知っていたが、圧倒的多数の中間管理職が既得権を主張し、彼らがボトムアップで醸成した「空気」に事なかれ主義の上層部がひきずられ、ずるずると戦争に巻き込まれたのだ。

このように内閣の指導力が弱いため、官僚機構の現場主義を押し切って方針転換ができない構造は、今も日本の政治に受け継がれている。この歴史から学ぶべき教訓は「戦争をしないために集団的自衛権をなくそう」という空想的平和主義ではなく、こうした「決められない政治」こそ危険だということだ。