水に流す国、流さない国

22日朝刊各紙を見ると、「日韓関係改善」の見出しが躍っている。新聞によってニュアンスの違いはあるものの、日韓外相会談で日本の世界遺産登録で協力することが決まり、年内には日韓首脳会談を開くという内容だ。

日本人は概ね冷却した関係が改まり、仲良くなることを喜ぶ。緊張した関係が続くことを嫌がる。だから、関係が好転するなら、多少のことはこちら側が譲歩し、我慢しようという姿勢が強い。「過去のことは水に流そう」というわけだ。

水に流そうと言っているのに、いつまでも根に持ち、グチャグチャ執念深く、未練たらしく不満をぶつけ、和解しようとしない人間は毛嫌いされ、軽蔑される。「すっきりしない奴だ。もう忘れろッ!」と。

ところが、韓国はいつまでも忘れない。「加害者と被害者という立場は千年の時が流れても変わらない」。2013年3月の演説でこう述べた朴槿惠(パク・クネ)大統領は典型的だ。

江戸時代に日本にやってきた李氏朝鮮の使節団--朝鮮通信使も、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時の自国の損害について、何度も何度もくどくどと文句を言うので、対応した日本の役人がうんざりした、という逸話もある。

出兵時に連れ帰った朝鮮人の捕虜を帰せ、という要求もあった。だが、連れて来られた陶工などはその技術が日本人に認められ、大切に扱われたので、実際は大半の朝鮮人が居残りを希望したという。

戦前も、日本に出稼ぎに来てそのまま居ついた朝鮮人が多かったのに、強制連行された、と文句を言い続けているのに似ている。

いつまで経っても水に流さない民族と流す民族。日本は山の斜面が険しく、川岸の汚染物や不用品は降った雨とともに川の急流をあっと言う間に下って海に呑み込まれてしまう。すべてを「水に流した」後は穏やかな青空が広がる。

ところが、朝鮮半島は急峻な山が少なく、平野を流れる川はなかなか流れない。川に流したはずの不要な物品や汚染物が沼地にとどまってしまったりする。忘れたいものがいつまでもとどまり、時に腐臭を漂わせる……。

風土の違いが民族のDNAを形成しているのか、それはわからない。しかし、朝鮮半島の住民が「この先千年たっても謝罪を求められるのか」とうんざりさせられる発言を平気でする国民性であることは間違いないようだ。

ただ、その「恨の文化」が時に沈静化する。現在の韓国のように経済、安全保障の面で国全体が弱まった時だ。「事大主義」が頭をもたげ、相手に助けを求めて来る。そういう自分への認識--屈辱感がハラの底で「恨の文化」を育てるのかも知れない。

いずれにせよ、前回指摘したように、弱体化を恐れる韓国は今、急速に日本になびきつつある。今まで高飛車な態度で日本の外務官僚と会い、いや会おうとしなかった韓国の尹炳世(ユン・ビョンセ)外相がそうだ。

韓国外相として4年ぶりに来日するや、手のひらを返すようにこれまでの態度を改め、日本が進める「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録について協力する方針を初めて示した。これまでは「戦時中に朝鮮人労働者が強制徴用された施設が含まれている」と難クセをつけていたのにだ。

朴大統領も「慰安婦問題で誠意を見せないかぎり会わない」と言っていた安倍晋三首相とも年内に会談すると言い出した。「背に腹は変えられない」と向こうが折れてきたのだ。

前回のブログで書いたように、ここで安易に譲歩してはならない。彼の国はめったなことでは「水に流さない」国民性なのだ。国際常識に則った日本の主張は堅持して行かねばならない。

国際非常識だった向こうが折れるのは当然なのだ、と思うことが大切である。こちら側から「まあ、細かいことは水に流そう」などと折れてはならない。それは彼の国の思うツボなのである。

井本省吾 ブログ 鎌倉橋残日録