イラン核協議合意にみる対話のチカラ

イランと欧米諸国との核協議が合意しました。カナダでも歴史的合意という受け止め方で非常に前向きに捉えられています。見方次第ではギリシャとEUの条件付き合意よりも高く評価されています。

イラン核協議そのものについては報道の通りですので私はそこに至る対話の側面から本件を考えてみたいと思います。

イランとアメリカの関係は1979年以降、犬猿の関係でありました。アメリカは国力を見せつけることでイランを苛め抜いたのですが、それは逆効果を見せました。つまり中東の不安定化であります。一方のイランも経済制裁により国力が弱まり始めました。両国にとって縛りが出来てつまらない状態に陥っていたわけです。ここで「対話の重要性」を見出したのだろうと思います。

対話のきっかけもありました。イランの大統領がロウハニ氏となった2013年8月から関係改善の機運が高まったことは間違いありません。オバマ大統領とのウマが合ったのだろうと思います。

今回合意に到達するにあたりケリー国務長官は交渉会場のウィーンに3週間張り付いたと報道されています。一国の国務長官がそれだけ時間とエネルギーをかけ、本件に立ち向かう姿勢を見せたことは対話のチカラそのものであったと言ってよいでしょう。

ギリシャ問題についてもEU首脳が日夜延々と会議を重ね、ひやひやながらも条件付き合意まで達しています。ギリシャ問題もその解決に懐疑的な見方が多かった中で一応の合意を見たのは双方が解決をしなくてはいけないという強い意志があったからでありましょう。そのために一つひとつ問題を解決し、対策を作っていくという気が遠くなるような作業を進めた成果であります。

ところで日本では安保法案を今日15日に採決をするようです。野党のみならず、国民の間でまだ十分に理解が進んでいないとされる中で安倍首相は強行突破するわけですが、このあたりは日本の政治の特徴でありましょう。審議に予定の80時間以上の110数時間をかけたという論理はイランやギリシャの合意のパッションと比べてあまりにも小さい努力の様に思えます。また、日本の政治は国民が関与することなく別の世界で進んでいるという感をより一層強めています。

これは日本の社会構造において歴史的にも官と民の関係を明白に分断する悪い癖を踏襲しているともいえます。中国でもかつて科挙が国を悪化させた原因となりましたが、日本でも官僚、政治家は偉い人、賢い人、先生と奉られ、「一般庶民とは違い世界に生きる人」というイメージを強く植え付けてきました。

話題の新国立競技場建築問題にしても議論がごく少数の人間でその責任所在がよくわからないまま展開し、挙句の果てにとてつもない予算を提示されました。大多数の国民から大きな声があがるも強行突破する姿勢を見せています。これは国民からすれば「結局役人が勝手に決めること」という官とのかい離感をより強めることになります。これが例えば消費税に対する強い抵抗感にもつながってくるのかもしれません。

日本は元来、ディベートは上手ではありません。ごく少数の「知識人」「有識者」「権力者」等でその合意形成の基礎をつくり、役人が地ならしをし、政治家が決め、マスコミがその声を拾い上げ、民に報告し、間接的に説得するという流れであります。勿論、民に声をあげる動きが少ないこともありますが、昼夜を徹して議論し続けるというスタイルはあまりありません。

企業でも効率化を求め、会議は○分以内とか椅子に座らず、立ってやるというところもあります。これはスタッフの意見を聞くというより経営方針を民に伝えるというスタンスであろうかと思います。これは会議ではなく、伝達式であります。

アメリカはキューバとの国交も回復しました。これも長年のディベートとタイミングを見定めた結論だったと思います。しばらく先かもしれませんが、時期を見てロシアとの関係改善も図ることになるのでしょう。5年後か、10年後かもしれない時に向かってディベートは続きます。

日本と韓国の首相が会うことすらままならないのが欧米社会で奇異の目で見られているのは対話する能力がないことは政治家としては考えられないと感じるからでしょう。日本の政治はいつまでたっても3流と言われる所以です。

ギリシャ、イランと見せつけられた対話のチカラを日本はもっと見習うべきではないでしょうか?

今日はこのぐらいにしておきましょう。

岡本裕明 ブログ外から見る日本、見られる日本人7月15日付より