安倍首相の臥薪嘗胆

安倍晋三首相の「戦後70年談話」を改めて新聞で読み返し、その心中を推し量ってみた。

彼が積極的に語りたかった「歴史」は冒頭の次のくだりだろう。

100年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、19世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

戦後50年の村山談話はもとより、同60年の小泉談話では表明されることはなかった、安部談話の真骨頂と言える。明治以来の日本の歴史を誇りあるものとして積極的に表現したい。それによって、持論である「戦後レジームからの脱却」を図る――。これが安倍首相の本心ではなかったか。

日本は大正、昭和初年も独立自尊の精神で殖産振興、富国強兵の政策を進めた。、政府の指示に従わない軍部の独走もあって部分的、小局としては中国などアジアを侵略した側面はあったが、大局としては欧米列強の侵略、植民地化の攻勢に抗した自尊自衛の歴史であった――。私の推測では、そう主張したかったはずである。

だが、戦後世界はいまも第2次大戦の戦勝国が築いたポツダム体制の国際秩序によって営まれている。戦勝国が描く戦前、戦中の歴史=「東京裁判史観」に沿った発言をしなければ「歴史修正主義者」として指弾され、国際社会の中で「孤立感」を深める危険が大きい。

集団的自衛権の行使容認、安保法案の成立を期す中で、安倍政権の支持率も下がっている。リベラル系マスコミはここを先途と、安倍首相の歴史修正主義の危険を言い募る。

中国や韓国、そして米国も安倍首相の談話構想に疑いの目を向けており、戦前、戦中の「反省」に加え「お詫び」を談話に入れなければ承知しないというムードが高まっていた。

右旋回を続けては、国内的にも国際的にも現在の政権維持が困難になる。そこで、本心を隠し、世界恐慌以降の歴史についての談話について、大きく左に、反省調に舵を切った(のに違いない)。

世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。そして70年前。日本は、敗戦しました。

「大局・自存自衛、小局・侵略」ではなく、「新国際秩序の挑戦者という過ち」を犯した歴史が主体だったという歴史観である。

本当は、行間に言いたいことが山ほどあった(と推測される)。欧米社会は人種差別と植民地化を固定したまま、自分たちに都合のいいブロック経済を築き、日本経済に大きな打撃を与えた。その打開のために満州に乗り出したのだが、それを「新しい国際秩序」への挑戦と断じ、日本の必死の営みを認めようとしなかった。だから、日本はその「新秩序」に挑戦せざるを得なかったのだ、と。

しかし、政治は結果である。どう言い訳しようと、70年前に悲惨な敗戦を迎える憂き目を国民に味わわせた当時の政治が間違っていたのは間違いない。戦争に至らないように努力が足りなかった。勝てるという自信も戦略もなしに戦争に突入したのは大きな失敗である。

その反省も行間にあるだろう。また、戦地となったアジアの人々に多大の被害と苦痛を与えたことも事実であり、安倍首相自身、それへの反省の言葉を述べるくだりに違和感はなかったに違いない。

しかし、談話はこの後もくどいほど反省、悔悟の言葉が続き、「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明してきました」という表現で「お詫び」の言葉も組み込んだ。そこまで辞を低くしなければ、厳しく批判される空気が内外にあるということだ。

本来ならもっと誇りある日本の歴史を語り、戦後レジームからの脱却を図りたかった、という慙愧の念はあるに違いない。臥薪嘗胆、その思いは胸に秘め、現実の政治外交で日本の国際的地位を高め、将来、結果として独立自尊の日本を築こうと思ったのではないか。

というのが、私の独断的な推測である。

考えて見れば、日本は幕末に辛うじて独立を維持できたものの、長い間列強から不平等条約、治外法権を押し付けられて鹿鳴館外交を強いられ、日清戦争後に三国干渉で臥薪嘗胆の屈辱をなめた。

日露戦争で国際的地位を高めたものの、その後も国際経済の波に翻弄され、第2次大戦後にGHQに占領された。いまも米軍基地が日本国中に置かれ、完全独立とは言いがたい。臥薪嘗胆は幕末以来、ずっと続いているとも言える。

もっとも、米国などごく一部の大国を除けば、完全独立の国は少なく、各国は大なり小なり我慢を強いられている。それが国際社会の常態である。そう考えれば、安部首相の70年談話は合格点の出来栄えと評価すべきなのだろう。